ようこそ、みなさん。
芦田愛菜だよっ。
いや、いきなりトチ狂ったわけじゃありません。
※ トチ狂ってるのはいつもです。
私が実は「やしろ優さん」だったわけわけでもありません。
※ 「小さい頃の芦田愛菜」のモノマネしてた人ね。
もうね...なんでしょね?(芦田愛菜だよっ?)
このニュースの「芦田愛菜さんの語った内容」が素晴らしすぎて。
“信じる”について芦田は「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」と高校生とは思えない回答を披露。
続けて「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」と言葉の中に潜む人の心理を指摘した。
あなた、本当に高校生なの?
※ 実際のインタビュー動画はコチラから
芦田愛菜、高校生とは思えない大人な発言にキャスト困惑? 6年ぶり主演映画に笑顔 映画『星の子』完成報告イベント
「人生何周目?」と言われる芦田プロですが、本当に「この人、輪廻転生があるなら、もうラストの周回だな」と思わせるには十分すぎます。
勝手に期待して、勝手に裏切られて
もう、ほとんど芦田プロが語ってらっしゃることに付け足すことないのですけど(笑)
「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」
完璧です。(芦田愛菜だもんっ)
私なんかみたいに「無駄な言葉」を書き連ねるわけでなく「ズバッ!」と語り尽くしてらっしゃいます。
ここまで説得力を持って響くのは、芦田プロの「今まで」があるからでしょう。
鈴木福くん(福くんは、なんか「くん」つけちゃいますね、未だに)とマルマルモリモリってた頃から(いや、もっと以前から)「天才子役」として、その「天性の素質」を我々国民は目の当たりにしてきました。
今、私は思わず「ブラウン管を通して」と書こうとしましたが、時代はとっくに「薄型液晶テレビの時代」です。
「液晶テレビの画面を通して」って書けばいいんでしょうか、この時代?
※ 「言葉は時代に合わせ移ろい行く」というのを実感しました(笑)
まとめサイトとか見ていると「育成成功」とか、それこそ「勝手に何処の馬の骨ともわからん有象無象に『勝手に期待され』た挙句に『勝手に評価され』て、上から目線で『成功例』とされてる」芦田プロからこの言葉が出てきたことに、私は深い感銘を受けました。
他人は自分の鏡
私はこう思います。
「他人は自分の鏡」だと。
ある人がいます。
私は、その人を「知っているつもり」になっているだけです。
その人が、何か悲しそうにしていると「私が」思ったとします。
だって、自分だったら「悲しい気持ちになるようなこと」がその人のみに降りかかっているように思えたから。
でも実際、その人によくよく聞いてみると「単にお腹が痛かっただけ」だとか、本当に「私が思っていたこと」と「本人からすれば『全く違う理由』で、私に『そう見えただけ』」ってことが、生きているとたくさんあります。
「私だったら、ああいう時はこう思う」であるとか、
「こうに違いない」であるとか、
「こうあって欲しいな」であるとか。
どこまで行っても、よくよく考えてみると、ただ「私」がいるだけ。
「その人」は「どこにもいないって」ことに気づきます。
だから、相手を通して見えてくるのは「自分」なんです。
それは「正しく見て(見えて)いない時」に起こることなんですけども。
「信じるということ」
「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」
なんでしょね、芦田プロ...
私のいうところの「思考を支える思考」まで、完全に見つめてらっしゃいます。
※ 「思考を支える思考」のお話はコチラから
しかも「高校生で」ですよ?
私が高校生の頃なんか、この世界に不貞腐れて、ひたすら図書館にこもって「暗澹たる青春」を過ごしていました。
タチが悪いことに、そんな「ほかの同級生たちとは違う俺、カッコいい」ぐらいまで思っていました。
今にしてみれば、かなりの「黒歴史」ではあります(笑)
※ 「その時がある」から「今がある」んですけどね。
「他人に勝手に期待して、おまけに勝手に裏切られたと感じる」のは、その人が「他人に自分の願望を投影してるだけ」なんですよね。
で、相手が「自分の思ってたのと違う」ということは「揺るがない自分」がいないから、そう感じるようになってしまうのです。
要するに「自分を信じることができていない」んです。
最初から「どんなその人でもいい。『その人自身』をちゃんと見つめよう」と思っていれば、裏切られたも何もないわけです。
如実知見
仏教の言葉に「如実知見(にょじつちけん)」という言葉があります。
これは「『ありのまま』に物事を見て、『ありのまま』にそれを受け入れる」という意味です。
※ 「ありのままに見ることの難しさ」は、前日「火(か)ヴァッチャ経」のお話でも語られています。
ある意味では「ブッダが語られたことの真髄を表す言葉」のようなものかもしれません。
四諦(したい)
四諦(したい、梵: catur-ārya-satya[1], チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または四聖諦(ししょうたい、巴: cattāri ariya-saccāni[2], チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理(諦))とは、仏教が説く4種の基本的な真理[3][4]。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと[3][4]。四真諦[5]や苦集滅道[6]。
- 苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実[4][5][7]。
- 集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実[4][5][7]。
- 滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実[4]。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ[4][7]。
- 道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実[4]。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ[4][5][7]。
苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す[5]。
四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる[5]。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた[7]。四諦はブッダが最初の説法で説いたとされている(初転法輪)[5][7]。
まぁ「ゴータマさんが実際に語った言葉」というものが多くの人を惹きつけ、そしてゴータマさんが「仏陀」と呼ばれるようになり、そうしていくうちに「仏陀の語ったことのエッセンス」と仏教徒の中で認められたのが「四諦」です。
如実(如実)
yathā-bhūta,yathā-tathā (S)
「あるがまま」「その如く」という意味。
仏教ではbhūtaやsatya、あるいはtathatāという語が真実・真如を意味するので、「あること」「存在すること」、あるいは「それ」とか「これ」と指し示しうるものがそのまま真実・真如である。したがって「あるがまま」「その如く」ということは、真実のとおりに、真如のままにという意味になる。
実相の如くなり。実性に如(かな)う。また、如は平等の意味、実は不虚の意味。また、真如実相の意味。共に理体に名づけたものである。
「如実知見」はその真実・真如を真実・真如のままに知見すること、すなわち本当の智慧(般若)を表す。真如平等、体は虚妄を離るが故に如実と云うなり。
〔行宗記1上之2〕
なお、漢語「如実」(実の如く)は事実のとおりにという意味で、『論衡』(卜筮)に用例が見える。
四分律含注戒本疏行宗記 4卷. [6] - 国立国会図書館デジタルコレクション
「あるがまま」を見れない(感じることができない)ので、人間の苦しみは発生するとも言えます。
「あるがまま」を見る(感じる)ことで、その「苦しみから脱却しよう」というのが「仏教のエッセンス」なわけです。
普通に生きている限り、その「苦しみ」は続きます。
最後に
通ってらっしゃる学校も、確か偏差値で言えば70はあるところでしょう。
単に「知能指数が高いだけで賢い」とは思いませんが、少なくとも「高い知性を正しく使ってらっしゃる」ことは間違いないでしょう。
だから「賢い」のだと、私は思います。
自分が相手や物事に「勝手に期待したこと」が「裏切られた時に感じられた時」に「失望や怒り」という感情が自分の中で沸き起こるだけなのです。
誰も何も裏切ってはいません。
裏切っているとしたら「自分が自分を」だけです。
何ものにも期待(妄想)をせず、あるがままを見つめられた時。
それが「信じられる時」なのではないでしょうか?
他人を。
そして、何よりも自分を。
他人を信じることは、つまりは自分を信じることでもあります。
だから「あなたがあなたの救世主」なのです。
以上、芦田愛菜でした。(違う)
また。
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