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「ありのまま」を見つめるために - パーリ仏典(原始仏典)より「火ヴァッチャ経」

Hatena Feedly

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ようこそ、みなさん。

 

今日は「火(か)ヴァッチャ経」という、あまり耳慣れないお経について。

はじめに

個人的なお話ですが。

 

昨晩、色々と考えることがありまして。

 

なかなか寝付けずにいたので、久しぶりに深夜のドライブをいたしました。

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深夜のドライブ」といっても、日本のどこにでもある「地方小都市」の、代わり映えしない景色の中をダラダラと走るだけのもので、首都高の煌びやかな景色の中を駆け抜けるでもなく、どこかを目指すわけでもなく、ただ見慣れた道を流すだけのものです。

 

カーステレオからはFMで「松田聖子青い珊瑚礁」が。

 

私は運転自体が好きなのですが、特にそういう深い時間帯の運転が大好きです。

 

運転される方ならわかられますでしょうか?

 

なんと言うか...「オートパイロットモード」とでも言いますか?

 

もちろん、運転中なので「ただボォーッと」してるわけではないのですが、特に注意しすぎたり気を張りすぎたりするでなく、見るでもなく、聞くでもなく。

 

普段は「どこかだけに集中している」のですが「全てに集中している」と言うか、それか「まるで集中せず、ただリラックスして全体に気を配っている」と言うか。

 

なんとも「言葉にしにくい」状態とでも言いますか。

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瞑想状態」とまで言ってしまうと言い過ぎですが、それでも「かなり近い」ような状態だと思います。

 

思考回路は静まっていて、ただ「ありのまま」を観て(感じて)いる。

 

そんな状態だと思います。

 

で、寝る前に「書いておかないとな」と思った内容を書いております。

 

正確に言うと、悶々と「考えてたこと」なわけですが。

 

何を考えていたか?

 

まぁ、プライベートなことも含まれますが、大きくは先日の記事で自分で書いた内容に関連しています。

何かを決めつけてしまうと、それがスコトーマになってしまい、他のことを見逃す恐れがあるので。

「大阪万博のロゴ」と「オカルトシンボリズム」と「スーパーシティ/スマートシティ」と - あなたがあなたの救世主

ここですね、ここ。

 

何かを決めつけてしまうこと」について。

 

「火ヴァッチャ経」とは?

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もう、ほんと聞き慣れないというか、聞いたことさえないお経です。

 

Wikiから参照しますが、説明が短いっ!

火ヴァッチャ経[1](かヴァッチャきょう、Aggivaccha-sutta, アッギヴァッチャ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第72経。『婆蹉衢多火(喩)経』(ばさぐたか(ゆ)きょう)[2]とも。

釈迦が、外道の修行者ヴァッチャヴァッチャゴッタ)に、解脱を火に喩えて説く。

火ヴァッチャ経 - Wikipedia より

 

最近「本当に便利な世の中になったなぁ(なりすぎかもなぁ)」と思いますが、なんと「パーリ語 - 日本語」の翻訳ができるサイトまであります。

ja.glosbe.com

ここで訳してみると「Aggi=火」で「vaccha」は名前(ヴァッチャさん)なんで翻訳されませんでして「sutta=糸」ですね。

 

スッタ(パーリ語」が「」ということは「スートラ(サンスクリット語」も「」なのかな?と調べてみると

経典(きょうてん、きょうでん、sūtraスートラsuttaスッタ)とは、仏教において釈迦が説いた教えを記録した聖典のこと。

経典 - Wikipedia より

 なので、直訳すると「スッタ(パーリ語)」や「スートラ(サンスクリット語」は両方とも「」ってことです。

 

じゃあ「なんで『糸』が『お経』を表すようになったの?」てことも気になるのですが、これは

原義[編集]

スートラ」(sūtra)の原義は「糸」のことで、元々はバラモン教において『ヴェーダ』のためにまとめられた散文綱要書を指して呼んでいたが、後にバラモン教ヒンドゥー教の様々な文献や仏教の文献にも、この呼称が採用されていった[1]

経典 - Wikipedia より

ということらしいです。

 

まぁ「いつまでも続いていくもの(真実・理)」が「」で例えられているってことでしょう。

 

中島みゆきの「」って、やっぱり深い曲だなぁ...(しみじみ)

 

完全余談ですけど、この動画伸びすぎでしょ(笑)


花嫁の父が歌う「糸」

 

さらにどうでもいいですけど。

 

縦の糸はあなた、横の糸は私」ってのは、やっぱ「Y染色体」のこと歌ってるんでしょうか?

ja.wikipedia.org

こんなことばかり詳しくなって、なんの役に立つんでしょうね?(笑)

※ もちろん「Y染色体は真理!」と言いたいわけでは決してありません(笑)

 

「火ヴァッチャ経」の内容

脱線するのはこれぐらいにしまして。

 

肝心の「火ヴァッチャ経に書かれていること」なのですが...

 

こちらの本に詳しくあるはずなのですが、生憎まだ未読です。

原始仏典〈第5巻〉中部経典2

ネットで検索したら「それらしきもの」は見つかるには見つかるのですが、なにせ「どマイナー」な(お経にマイナーもメジャーもないだろうけど)なので、どうにも「比較対照できるほどに豊富な資料がある」わけじゃありません。

 

いや、買えよっ!」とのお声も聞こえてくるようですが、ここは強引に「パーリ語を英訳したサイトを、さらに私なりに和訳してみたい」と思います。

 

前にもチラッと書きましたが、もちろん、パーリ語から日本語へと「仏教に精通された方」が翻訳されたのって「堅苦しくって」私みたいな人間にすんなり入ってこないのです。

 

超訳シリーズ」みたいな感じになるかと思いますが、まぁ入門編というか、個人のブログなので生暖かい目で見ていただければ幸いです。

※ 壮大な責任逃れをしてから始めます(笑)

 

参考にしたのはコチラの英訳です

www.accesstoinsight.org

それでは「超訳」をしてみたいと思います。

 

「サーヴァッティー」という場所にある「アナータピンディカ園」という場所に、仏陀が滞在されておいででした。

そこに外道(仏教以外の宗教のこと)の修行者である「ヴァッチャさん」が訪ねられ、仏陀に様々な質問を投げかけます。

 

(ヴァッチャさん)

「ゴータマさん?この宇宙は『永遠だ』と思われますか?そういう風にあなたには視えているのですか?」

 

仏陀

「いいえ。ヴァッチャさん、私はそんな風には思いませんよ」

 

(ヴァッチャさん)

「ゴータマさん?それではこの宇宙は『永遠ではない』と思われるのですね?そういう風にあなたには視えているのですか?」

 

仏陀

 「いいえ。ヴァッチャさん、私はそんな風にも思いませんよ」

 

(ヴァッチャさん)

「ゴータマさん?この宇宙は『有限だ』と思われますか?そういう風にあなたには視えているのですか?」

 

仏陀

「いいえ。ヴァッチャさん、私はそんな風には思いませんよ」

 

(ヴァッチャさん)

「ゴータマさん?それではこの宇宙は『無限だ』と思われますか?そういう風にあなたには視えているのですか?」

 

仏陀

 「いいえ。ヴァッチャさん、私はそんな風にも思いませんよ」

 

(ヴァッチャさん)

「ゴータマさん?じゃあ魂と肉体は同じものだと思われますか?そういう風にあなたには視えているのですか?」

 

仏陀

「いいえ。ヴァッチャさん、私はそんな風には思いませんよ」

 

(ヴァッチャさん)

「ゴータマさん?それならば魂と肉体は別のものだと思われますか?そういう風にあなたには視えているのですか?」

 

仏陀

「いいえ。ヴァッチャさん、私はそうだとは思いませんよ」

 

と、こんな感じで「宇宙の永遠性」や「宇宙の無限性」、または「魂と身体は一体なのか?」という問題や「人は死後も存在するのか?しないのか?」など、ヴァッチャさんから「私たちも答えを知りたいこと」に関する質問が繰り返されるわけです。

 

ただ、仏陀であるゴータマさんが繰り返すのは「いいえ、そうは思わない」という答えばかり。

 

しびれを切らしたヴァッチャさんはこう問いかけます。

 

「ゴータマさん!なんであなたは両方の問いに『そうは思いません』と、全ての考え方を認めないんですか!」

 

それを受け、仏陀はこう続けます。

「いいでしょうかヴァッチャさん?」

 

「『宇宙は永遠である』という立場は、雑木林を見ているようなものであり、荒野を見ているようなものでもあり、歪められた見解でもあり、しわくちゃの見解でもあり、束縛された物の見方です」

 

「それは『苦しみ』『苦悩』『絶望』『熱狂』などを伴います」

 

「そして、それは『迷いから覚めること』や『平静な状態になること」や『穏やかな心の状態になること』や『智慧を直に味わうこと』や『完全なる目覚め』や『解脱』に繋がるものではありません」

 

「『宇宙は永遠ではない』とする立場も」

 

「『宇宙は有限である』とする立場も」

 

「『宇宙は無限である』とする立場も」

 

「『魂と肉体はひとつである』とする立場も」

 

「『魂と肉体は、それぞれ別々のものである』とする立場も」

 

「『死後に如来は存在する』とする立場も」

 

「『死後に如来は存在しない』とする立場も」

 

「『死後に如来は存在するし存在しない』とする立場も」

 

「そのどの考え方も、あなたを『迷いから覚めること』や『平静な状態になること」や『穏やかな心の状態になること』や『智慧を直に味わうこと』や『完全なる目覚め』や『解脱』には導きません」

たまらずヴァッチャさん、こう問いかけます。

 

「ゴータマさんは『どのような見解も持たない』ということですか?」

 

仏陀はこう答えます。

 

「ヴァッチャさん。『見解』というのは、如来が捨て去ったものです」

 

如来が見ているものは、次のようなものです」

 

「それは『姿そのもの』や『その起こりそのもの』または『その消滅』です」

 

「それは『感情そのもの』です」

 

「そして『感情の起こりそのもの』であり『感情の消滅して行く様そのもの』です」

 

「そのような『知覚』は、多くは偽物で、『脳が作り出している意識』です」

 

「これら『偽物』を消し去るために、私は語るのです」

まだまだ納得できない様子のヴァッチャさんは、さらに続けて質問をします。

(ヴァッチャさん)

「しかしゴータマさん?『そうして心が解放された人』はどこに再び現れるのですか?」

 

仏陀

「ヴァッチャさん。どこにも『再び現れる』ことはありませんよ」

 

(ヴァッチャさん)

「その場合、彼は再び現れることはない?」

 

仏陀

「再び現れることはありません。ヴァッチャさん、再び現れることはないのです」

いよいよ混乱してきたヴァッチャさん。

 

「ゴータマさん!私は混乱しています!」

 

「先ほどの会話で少し分かり始めていたように感じていたんですが、また訳が分からなくなりました!」

 

仏陀は続けます。

仏陀

「混乱するに決まっています。とても深く混乱してしまいますよねヴァッチャさん?」

 

「この現象は見えにくいですし、実現することは難しいですし、静かで、洗練されていて、憶測や推測できる領域を超えていて、絶妙で、賢者が経験するべきものです。」

 

「『他の見解』や『他の実践』や『他の満足』や『他の目的』や『他の師』を持つ人々にとっては、『それ』を知るのは難しいことなのです」

 

「私は今、あなたに質問をします」

 

「どうぞお好きに答えてみてくださいね」

 

「もしあなたの目の前で火が燃えていたら、『この火は私の目の前で燃えている』ということがわかりますか?」

 

(ヴァッチャさん)

「はい...」

 

仏陀

「それでは『あなたの目の前で燃えている火は、何を燃料に燃えていますか?』と尋ねられたらどう答えますか?」

 

(ヴァッチャさん)

「...『私の目の前で燃えているこの火は、草木を燃料にして燃えています』と答えるでしょうね」

 

仏陀

「あなたの目の前で燃えていた火が消えてしまったら、あなたは『目の前で燃えていた火が消えた』とわかるでしょうか?」

 

(ヴァッチャさん)

「え、ええ...わかります」

 

仏陀

「誰かにこう聞かれたとしましょう。『あなたの目の前で燃えていた火は、どちらの方角に行ったのですか?東?西?北?それとも南ですか?』と。あなたはどう答えますか?」

 

(ヴァッチャさん)

「答えようがありませんよ、ゴータマさん。草木を燃料に燃えていた火です。その燃料がなくなり、もう燃やすものがないので、それは単に『消えてしまった』のですから」

 

仏陀

「ヴァッチャさん。あなたがしていた質問は『まさにそういうもの』ですよ」

ここで「ハッ!」と何かに気付いたヴァッチャさん。

 

そのまま在家信者になることになりました。

 

仏陀の、こういう「考えてもわからないものはわからない」とする姿勢はとても大事だと思います。

 

というか、称号としての「仏陀=真に目覚めた人」というのは「不可知論者」ということになるのではないかと思います。

※ 「現代では」ですけども。

釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)は神の存在については肯定も否定もしなかったとされる。ただし、釈迦は仏教の開祖として宗教の枠組みの中に取り込まれた存在であるため、仏教が分派発展していく過程で釈迦が絶対的な存在を肯定している教典が多数存在する。

不可知論 - Wikipedia より

まぁ要するに「分からんもんは分からんし、そんな『どうとでも言えること』ばかり考えてないで、おまけに、その『どうとでも言えること』を固定観念(スコトーマ)にしてないで『目の前で起こったことそのもの』を見なさいよ」ということですね。

 

「ありのまま」を見る難しさ

特に「陰謀論」などで語られていること(「アイツが悪者の親玉だ!」の類)を見ていて、私はいつも思います。

 

決めつけたら見失うのに」と。

 

下手したら「アイツらが悪者だから、こういう目的を持っているから、いま起こっていることは『その計画』を実現するために全て行われているんだ!」とか、もっと悪ければ「こういう『事実』がある。でも『もっと悪いことが隠されているに違いない!』」という思考回路になってしまい「ありもしないこと(妄想)」まで自ら補強してしまって、それで「ますます自分が敵としたものを憎む」ことになる。

 

こういうのを「本末転倒」と言うのだと思います。

 

そうやってるうちに「本当に目の前で起こっていること」を見逃してしまう。

 

自灯明」のお話にも通じることです。

kazzhirock.hatenablog.jp

決めつけたらお終い」です。

 

まぁ、人間って「わかりやすい」のが好きですし「ちょっとわかりにくい」ものがわかってくると「わかっちゃいない」と他人に優越感も感じるものですし。

 

それがどんどん進んでいくと、自分が「優越感を感じたいから」って事実に気付かないまま、自分が「」だと決めつけたモノに、遡って、その対象が「悪であるための理由」を探し出し始めかねません。

kazzhirock.hatenablog.jp

私はどうやら、他の人から言わせると「四六時中考えてる人」らしいです。

 

なんでか?

 

だって「考えに考え抜きたい」と思っているからです。

※ とはいえ「感じる」ことが一番なんですけどね。

 

本来、人間は「全てをリアルタイムで処理しないよう」自らの知覚をセーブしているお話は前にさせていただきました。

kazzhirock.hatenablog.jp

自らセーブするために設けている壁をぶち破る」ことが、「悟り」へ至るための「ひとつの道」だと思います。

※ あくまで「幾つもある方法論のうちのひとつ」だとは思いますが。

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人間関係でもそうです。

 

私なりに言わせてもらえば、たった一人の人でも「違う宇宙」に住んでいます。

 

違う宇宙」と交信するのに、全力なんです。

 

私は交友関係が広い方ではありません。

 

だって、そんなやたらめったら「多くの宇宙と交信する」のなんて、私にはできません。

 

深く、相手を「ありのまま」に見つめたいのです。

 

めちゃめちゃ大変です。

 

自分で昨日気付きました。

 

そりゃ、友達少ないわな」と(笑)

 

また。

 

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