ようこそ、みなさん。
秋の気配を感じるようになってきましたね。
あんなに長かった陽もどんどん早く沈みだし、冷たい風が吹くのを感じられるようになり、木の葉は舞い散るようになる季節。
人生で一番「孤独を感じる」のが「秋」ではないでしょうか?
例えどんなにお金持ちになり物質的に豊かになろうとも、そんな「秋の夕暮れ時のように寂しい」のが人生というものでしょう。
時代も国も関係なく、どんな人でもそのような「寂しさ」を抱えて生きている。
はじめに
「愛して欲しいのに、誰も愛情を注いでくれない」という気持ちの時(またはそういう幼少期を過ごしてきた人など)は「孤独な気持ち」になったり、ずっとその思いを根底に抱えたまま過ごされているのではないでしょうか?
みなさんはいかがでしょうか?
そういう「孤独の本質」と向き合い、癒す方法を見つけることができないまま生きていくのは辛く苦しいことです。
元から孤独だった人が完全に孤独から脱却するのはとても難しいことでしょうし、ある時にいきなり「虚しさ」に襲われることになる人もいるでしょう。
そんな時に「どう思えばいいのか?」について、ブッダが語ったとされる教えの中にヒントを求めてみたいと思います。
「星の王子さま」の孤独
サン=テグジュペリの「星の王子様」という小説の中で、主人公である操縦士の「ぼく」はサハラ砂漠に不時着し、一人の少年と出会います。
話すうちに、その少年は「ある小惑星から地球にやってきた王子様」であることがわかります。
王子様は自分の小さな星に他の星からやってきた「薔薇」をとても大事にしていて、その花をよく世話していたのですが、ある日その花と喧嘩をしてしまいます。
それをキッカケに他の星を見に行くことにし、6番目に訪れた星にいた地理学者に「次は地球という星に行くといいよ」と教えられ、7番目の旅先として地球にやってきます。
人っ子一人いない砂漠に降り立った王子様は、砂漠の花に「人間はどこにいるのか?」と尋ねますが、砂漠の花はこう答えます。
「さぁ?どこで会えるかわかりませんね。私は風に吹かれて歩き回るんです。根がないからとても不自由していますよ」と。
しっかりと根を張り、どこにも行くことができなから不自由しているのではなくて、根がないから不自由している。
人も同じじゃないでしょうか?
心の拠り所がないから、自分の居場所がないと感じるから、人は孤独を感じてしまうものでしょう。
人の中にいてこそ
大勢の人の中にいる程に、その「寂しさ」は際立ってしまうもので、三木清さん(京都学派の哲学者)は終戦直後にベストセラーになった「人生論ノート」の中でこう書いてらっしゃいます。
孤獨(孤独)は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤獨(孤独)は「間」にあるものとして空間の如きものである。「眞空(真空)の恐怖」――それは物質のものでなくて人間のものである。
三木清 人生論ノート より
私は山歩きをするのが好きで、以前はよく登山をしていました。
山の中では独りぼっちですが、一見孤独なようでいて、歩いているときに孤独を感じるようなこともありません。
まぁ、楽しそうに会話しながら登山をしているご夫婦やグループの方とすれ違ったりする時には少し寂しい気持ちになったりもしますが(笑)
東京などの大都会にいると、逆に孤独を感じることがあります。
私は田舎から上京し東京に何十年か暮らしていましたが、新宿駅の雑踏の中でふとした瞬間に「ああ、こんなに人がたくさんいるのに俺は独りだな」と感じたものです。
「東京砂漠」というヤツですね。
※ 前川清さんの歌う「東京砂漠」は胸に沁みます...
出会いと別れを繰り返し
秋も寂しい季節ですが、3月というのも寂しいもので。
卒業や異動など、たくさんの「出会いと別れ」が繰り広げられる季節です。
それまで仲良くしていた同級生と別々の道に進んだり、仲良く酒を酌み交わした同僚が遠い場所に行ってしまったり。
「また連絡してね」と約束してみたところで、それぞれの新しい場所で新しい人間関係ができ、その約束はいつか忘れられたり果たされなくなってしまったり。
そんな時に「楽しかった日々」が思い出されると「その楽しかった日々を一緒に過ごした人が今は、もう、いない」という事実に寂しさがこみ上げてきてしまいます。
恋人との別れなどもそうですし、ましてや大切な家族を亡くしてしまった時などは、とてつもない寂しさを味わうことになります。
独生独死 独去独来
そんな孤独をどうすればいいんでしょう?
ブッダは「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」の中でこう教えられています。
「独生独死 独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)」と。
「人間は独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来たる」というわけです。
確かに、お父さんとお母さんがいたからこそ私たちは生まれることができますし、もっと言えば「お父さんのお父さんとお母さん」「お母さんのお父さんとお母さん」という風に、ずっとご先祖さまの連鎖が続いたからこそ「わたし」は生まれてくることができました。
そんな風にはなかなか実感できない(目に見えないから)もので、私たちは独り生まれ独り死んでいかなければなりません。
「だから寂しいんだ」と教えられているのが、この教えになります。
人生は「孤独な一人旅」です。
Heart Of Gold / 孤独の旅路
私が子供の頃から大好きな曲に、ニール・ヤング(Neil Young)さんの「Heart Of Gold」という曲があります。
歌詞を私なりに和訳させてもらうと
I want to live
生きてる実感がほしい
I want to give
この身を捧げたい
I’ve been a miner for a heart of gold
俺は「黄金に輝く心」を探し続ける鉱夫なんだ
It’s these expressions I never give
この思いは言い表せるもんじゃないけど
That keep me searching for a heart of gold
この思いが俺に「黄金に輝く心」を探させるんだ
And I’m getting old
そうやって俺は年老いていくのさ
Keeps me searching for a heart of gold
「黄金に輝く心」を探し続けさせるんだ
And I’m getting old
そうやって俺は年老いていくんだ
I’ve been to Hollywood
ハリウッドに行ったことあるし
I’ve been to Redwood
レッドウッドにも行ったんだ
I crossed the ocean for a heart of gold
「黄金に輝く心」を求めて海も渡ったよ
I’ve been in my mind, it’s such a fine line
とても細い道筋を辿って自分の心の中も彷徨った
That keep me searching for a heart of gold
そういう思いが俺に「黄金に輝く心」を探させる
And I’m getting old
そうやって俺は年老いていく
Keeps me searching for a heart of gold
「黄金に輝く心」を探させるのんだ
And I’m getting old
そうやって俺は年老いていくんだ
Keep me searching for a heart of gold
「黄金に輝く心」を探し続けさせてほしい
You keep me searching for a heart of gold
おまえが俺に「黄金に輝く心」を探させてくれるんだ
And I’m getting old
そうやって年を重ねていくのさ
I’ve been a miner for a heart of gold
俺は「黄金に輝く心」を探す鉱夫なんだ
Neil Young / Heart Of Gold
なんでこの歌が子供の頃から好きなのかわかりませんけど、きっと「そういう子供」だったんでしょうね。
まさに「独生独死 独去独来」です。
寂しい時はどうしたらいいの?
寂しさを紛らわせたいから誰かと繋がりたい。
そう思うのは当たり前ですよね?
いくらブッダが「人生は独りきりの孤独な旅だよ」って言われていようとも、こちとら「寂しいもんは寂しんだよ!」という気持ちになります。
寂しいから誰かに電話する。
寂しいから誰かとメールをする。
寂しいから誰かを誘って遊びにいく。
どうしても一人だったら、SNSに投稿してみたり、音楽を聴いたり、映画を観て観たり。
寂しい心は「誰か」を求めます。
人と繋がってる実感を得ることで、寂しさを和らげたり、忘れてみたり、紛らわせてみたり。
でも、そのうち気づくのです。
先ほどの「人混みにいればいるほど孤独が際立ってくる」のと同じです。
「誰か」というのは「誰でもいい」わけではないことに。
「自分のことをとても理解してくれる人」だということに。
「自分のことを愛し、受け止めてくれる人」だということに。
こちらが一方的に愛している人と一緒にいることができれば、最初のうちは幸福感を味わえるかもしれません。
それでもやっぱり「わかってもらえない」と寂しさを感じるものです。
他人は結局「自分の鏡」なのですから。
私たちが探しているのは「魂の伴侶」ではないでしょうか?
以前に書かせていただいた内容だと「象」ですね。
本当に願っていることは
人間誰しも「自分だけの世界(内宇宙)」に住んでいます。
誰にも理解してもらえない、自分だけの心を理解してもらいたいと願っています。
本当の「心の連れ」を欲しています。
「独生独死 独去独来」は、正確には「大乗仏教である浄土真宗」で大事にされている教えなので、ここで私が浄土真宗のお坊さまならば「仏様があなたを本当に理解してくださる方なのです」と結ぶところでしょうが。
生憎、私は「ただの人」です。
「仏教の教え」ではなく「ブッダの語ったこと」で「自分を救いたい」と思っています。
大乗仏教というのは「多くの人を救いたい」という思いから派生した教えなので、まぁ、「仏に帰依してもらう」というのは間違いではないですし(だって、自分で自分を救うの大変だから)、「独生独死 独去独来」が「オリジナルのブッダの言葉からほど遠い」わけでもありません。
「独生独死 独去独来」ということを知りつつ、その上で「自分のことを理解してくれる誰か」がいたら最高でしょう。
私は「こういうことがわかる人」といれたら最高です。
最終的には「誰か」も「自分」になるのが一番でしょうが。
「悟りを開きブッダになった」後のゴータマさんだって、大いに寂しさを感じておられます。
「悟り」を開いたからって、人間の感情が全て消え去るわけじゃありませんし、逆に「悟りを開いたからこそ」余計に感情の陰影が色濃くなることだってあります。
その辺りのお話は、また別の機会に。
何か、みなさまの参考になりましたら幸いです。
また。
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