色々と書いておきたいこと(伝えておきたい知識)はあるのだけれども、どうにも「それを集中して」書くことができないでいます。昨夜から(ほとんど慢性的ですけども)、謎の頭痛がしているからでしょうか?まぁ、それは血圧が高い(そして気温が低い)せいだからだと思われますが。
そんな状態ではありますが、自分の性質として「何か書き連ねる」ことで「(頭の中が)スッキリする」性質があることも、何ヶ月もブログを書いてきて「再発見」したので、思いつくままに、昨夜から考えていたことなどを書いてみようかと。これでは、ほとんど日記のようなものになってしまいますが、たまにはいいでしょ?ということで。
自分が(特に大きな理由もないのに)「寂しい気持ち」になった時、同時に「なんで人間は寂しく感じてしまうのだろうか?」と考えます。そして、ある程度「生物学的な特性として『寂しさ』を感じてしまうのは必然である」と納得すると、その「寂しさ」にも「理由が付く」ので心を落ち着けることができるようにもなります。
現代社会の病理の大部分は、この「寂しさ」に由来しているものだとも考えられますし、きっと多くの人も同じように、ふとした瞬間、この「寂しさ」に襲われていらっしゃるだろうと思い、私のように「『寂しさ』に理由づけする(原因を知る)ことで、その気持ちを凌ぐことができるようになられるであろう」と思い、この動画をご紹介しようと考えておりました。
しかし、よくよく考えると、コチラの動画には「既にちゃんとした日本語字幕がついている」ので、わざわざ当ブログで私の稚拙な日本語訳をご紹介する必要もなく。
誰もが時々、孤独を感じます。
この感覚が私達の祖先にとっていかに重要であったかはあまり知られていません。
そして現代の世界において孤独が私達を本当に苦しめるものになってしまっています。 どうして私たちはこのように感じるのでしょう?
Loneliness - YouTube 説明欄より抜粋
まぁ、結局のところ「私たちは必要性があって孤独を感じている」わけで、それは「はるか昔の先祖たちが必要としていたから、そうなった」のであって、私たちが「機能として備えているものだから、孤独を感じてしまうのはしょうがない」 ということです。
そんなこんなを考えていましたが、それでも「やっぱり孤独を感じてる最中って、なんかみんなもしんどいだろうなぁ」と考えておりまして。
そんな時(理屈は飲み込めたけど、それでも心がざわつく時)に私がどうしているかというと、とにかくひたすらに「文字を読む」ことだったりしますので、いつものように「文字がひたすら書き連ねてある」本を読み返し始め
コチラの本(京極夏彦氏の『鉄鼠の檻』)を読んでいたのでした。
小説というカタチをしていますが、その実「仏教史の概要」を紹介しているような本でありまして、これさえ読んでおけば「一通りの仏教の歴史の上部をなぞることができる」と、個人的には思っております。
そんなこんなしているうちに、思考は「まぁ〜た思考に囚われすぎぃ」と(矛盾してますね)なりまして。
と、ここまで書いてきましたが、やはり、どうにも集中力に欠けてしまい。
「禅」について、あれこれ調べ、そこからまた多くの発見もあったのですが、その過程を詳細に書き連ねる気力が、どうにも湧いてきません。でも、頑張って書いてみます(笑)
「臨済録」のことだったり
「無門関」のことだったり
「夜船閑話」のことだったり
「正法眼蔵」のことだったり
色々と「『禅』について書いてあるもの」を読み漁っていたりしたわけです。
※ ネットで手軽に読める範囲で、ですけどね。
中でも、特に「改めて(今の私が)気になった」のは
禅の公案とは、このように問答の先で商量させることなのである。だから禅語録とは、もともと「問答商量」が巧みに編集されているとみなしたほうがいい。
1000ya.isis.ne.jp より抜粋
この「商量(しょうりょう)」という言葉(概念)だったり
あらゆる返事は、こう云う具合に、相手と自分を商量して、臨機に
湧 いて来るのが本当だと思っていた。www.aozora.gr.jp より抜粋
養老先生の巧みな紹介文にある内容のことだったり
禅といえば、まず坐禅である。身体技法が、ある種の意識状態をつくりだす。坐禅はその典型で、仏道修行に取り入れられた。伝統的に心身一元論を採ってきた日本人に、馴染みやすい修行法であったに違いない。
只管打坐のいっぽうで、禅はおびただしい「ことば」を遺した。修行者は、公案として、師と一対一でそれを学ぶという。いわば口頭試問だが、「禅問答」というように、多くはわけがわからない。非合理である。論理の壁を超えろ。そういうことであるらしい。
坐禅と公案、この二つは互いに補完し合っている。つまり禅は、脳みそで考えることの限界を、身体を動員して教えるのである。
私自身は坐禅はやらない。虫捕りをする。「ことば」のほうは商売モノなので、それがいかにアテにならないか、よくわかっている。「おまえの考えてることは、その程度だよ」。禅家のことばは、そう説く。完全に言語世界に囚われている現代人にとって、これは衝撃であろう。専門家に独占させておくのはもったいない。広くお奨めする所以である。
※ ですよねぇ、言葉はやっぱりアテになりませんよねぇ。
何をどう検索してて行きあたったのか覚えてません(確か『臨済録』関係を調べてた流れ?)が「常不軽菩薩(じょうふけいぼさつ)」という概念は、宮沢賢治の『雨にも負けず』とリンクしているらしい」ということだったり
法華経の精神
「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ」のように労をいとわず手助けをし、「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」とあるのは、『法華経』の常不軽菩薩の精神を表していると指摘されている。
なお詩句の最後の箇所である59ページ目(「ホメラレモセズ」から末尾まで)は手帳の見開き右のページとなっており、同じ見開きの左のページ(60ページ目)に「南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如来/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」という題目が記されている。中央の「南無妙法蓮華経」の行は、他の行よりやや字粒が大きくなっている。
ja.wikipedia.org より抜粋
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
「そういえば、俺も小学生の頃に『そういう人になりたい』って思ったなぁ」などと思い出してみたり。
宮沢賢治によって仏教的な心に触れる、というのも、ある意味で「商量」と言えるのではないでしょうか?
「プログラミングコードの中に、次のプログラミグコードへ続く地図が織り込まれて格納されている」的な。
※ 思考の入れ子構造
色々と読み出したら連鎖が止まらず、昨日の一晩だけでも様々なことを考え、「これ、どうやってまとめりゃいいのさ?」となりまして、こんな感じの乱文を書いている次第であります。
※ 「ひたすら書く=手(指)を動かす」という「行動」で「考えること」から抜けようとしているのかも?
本日のタイトルにしました「よしなしごと」は、みなさんもご存知の通り「徒然草」の序段の「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」から取りましたが。
まぁ、ある意味で、こんな風に思いつくまま、色々と思い浮かぶままに文を綴っていると「狂っているような」気持ちにもなりますし、一人きりであれこれ考え続けているのも「自分で自分と禅問答しているようなもの」なのかもしれません。
※ そんなことばっかしてきたんで、こんな具合に仕上がってしまったのかもしれません、私の場合(笑)
新年早々の誓い(もっとわかりやすい文章を書く)をいきなり裏切るカタチにはなってしまいましたが、とりあえず「なんか書きたいな」という欲に忠実に書かせていただきました。
今日は「お伝えしたいこと」はなぁ〜んにもございません(笑)しばらく沈思黙考することも必要なのですが...
毎日、こうやって「知識は増えていく」わけですが、その知識も「活かせて(使えて)こそ」なのだと思いますし、まして「まとめて表現できないことには本物の知識にさえならない」のだと思います。
※ 「知識は知恵となり、さらには智恵となる」的な。
「こっちの世界」では、やれコロナの新規感染者が何人だ、やれアメリカ大統領選挙では1/6に何か大きな動きがありそうだ、色々と騒がしいわけですが。
「二極化したから」かどうかは分かりませんが、実際のところ、私の心はとっくに「あっちの世界」に在るのかもしれず、急激に「(こっちの世界での騒ぎ全般は)どうでもいいかなぁ」みたいな気持ちになったりもしています。
「自分の世界を創れるのは自分だけ」のようですね、やっぱり。
あと、わたしが「たまに(いつも?)わけのわからんことを書く」のも「禅的なナンセンス」ということで、ひとつご理解いただければ。
また。