ようこそ、みなさん。
本日は「自灯明」と「法灯明」のお話をさせていただきたいと思います。
そもそもみなさんは、この言葉をご存知でしょうか?
この言葉は「涅槃教」に残された「お釈迦様が入滅される(お亡くなりになる)前に、最後に残された教え」だと言われています。
「他者に頼らず自分自身を拠り所とし、法を拠り所とし生きなさい。」ということです。
※ 必読中の必読書
釈正輪 / 自らを照らし一隅を照らす
言葉というものは「プログラミングコード」のようなものだと私は思っているところがありまして、「並び順」とかもとても大事だと思います。
なんで「自灯明」が先にあるのか?
これは「私(お釈迦様)の教えばかりを頼りにしないで、先ずは自分を拠り所にしなさい。」ということだと思います。
その上で「『法』(本当に正しいこと)を頼りにしなさい。」ということでしょう。
「これが本当に正しいことだ!」と誰かが言ってることではなく、「自分が考え抜いて考え抜いて、それでも考え抜いて、自分なりに得た考え方」が「法」でしょう。
おまけに「死ぬ瞬間まで自己点検を繰り返しながら」考え抜き、「あ、間違ってたな。」と思ったら軽やかに捨て去ることも必要でしょう。
めちゃくちゃ大変じゃね?
基本的に誰のいうことも信じないで、あくまで自分で自分で考えて、しかも自分の考え方が間違ってたらあっさり捨て去るのって?
そんな生き方できる人、そうそういません。
だからこその「人生は修行」なのでしょうね。
でも「目指すべき在り方」だと思いますので、是非ともみなさんにも覚えておいていただきたい言葉です。
ここからは余談です。(笑)
いつものように「自分語り」です。(笑)
私は自分で言うのもなんですが「相当いかれたガキ」だったのは間違いないようで。
「いかれた」と言うか「捻くれ腐った」というか。
まぁ、基本的に「誰の言うことも信じない」子供だったわけです。
いますよね?そんなめんどくさい子供。
「ねぇなんで?」「本当に?」「誰が言ってたから正しいの?」「何時何分何十秒?地球が何回周った時ぃぃぃ?」(知るかボケぇ!)
めんどくせぇ...
そんな子供(今でも、ですが)だったもので「お釈迦様の教え」ですら「俺、お釈迦様本人に聞いたわけじゃねぇし!」と今でも思っています。
イエス様ご本人に聞いたことなら「信じる」かもしれませんが、たぶん「はぇー、イエスはんは偉い賢いこと言わないはるなぁ。どゆこっちゃろ?」と「考え出す」ことから始めるでしょう。
世の中に残る、どんなにありがたい「お経」だろうと「聖典」だろうと、ご本人が直接書かれたものでもない限り「絶対に誰かの手が加わって」います。
そのことを忘れてはいけないと思います。
面と向かって会話しててさえ、自分の言いたいことや感情などが「相手に正確に伝わること」は大変に難しいことでしょう。
※ ごくごく稀に「以心伝心」モードになったことはありますけど。
「〇〇とされています。」とか「〇〇と言われています。」とかいう表現方法を多用するのもそのためです。
「自分自身すら疑い続ける」でも「徹底的に自分を信じる」という、まるで真逆のことを同時に行う。
至難の技ですが、できたら気持ち良く生きれるのでしょうね。
「あなたがあなたの救世主」です。
また。
※ たまに好きな曲でも貼っていこうかと思います、〆に。
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