ようこそ、みなさん。
この記事は本当に雑記です。
今思いついてることを書き留めておこうとするだけのものです。
読んでくださる方に何か徳があるかはわかりません。
※ それはどの記事でもそうですが。
よく「真実を探すんだ!」と息巻いている人がいますが、それって「どうなの?」と私は思っています。
最近は陰謀論系の話題を取り上げることも多いので、そのような姿勢を様々なブログなどを拝見しているうちに、無意識的に筆者様の文章から感じてしまっているのかもしれません。
例えば
コチラの記事でご紹介した中に「チェリーピッキング」というものがあります。
チェリー・ピッキング(英語: cherry picking)とは、数多くの事例の中から自らの論証に有利な事例のみを並べ立てることで、命題を論証しようとする論理上の誤謬、あるいは詭弁術。cherry-pickingの語義は、サクランボの熟した果実を熟していないものから選別することであり、転じて「良い所だけを取る」「(特売品専門の)購買者」「つまみ食い」の意味で使用される。
たとえば、「政治家の世襲は良い」という命題で、全世界に無数にいる世襲政治家の中から評価の高い人間だけを選び、「AもBもCも世襲だから世襲は良い」と論じるのがこの誤謬にあたる。また逆に「政治家の世襲は悪い」という命題で、世襲政治家の中から評価の低い人間だけを選び、「甲も乙も丙も世襲だから世襲は悪い」と論じるのも同じである。
囁かれる陰謀論自体にも、この「チェリーピッキング」の手法が散りばめられています。
「Aは〇〇しているから悪だ!」というような思考回路によって書かれた文章が溢れかえっています。
これを書き換えると「Aは悪だ!〇〇だから!」という書き方にもできるかと思います。
さて、人が「〇〇だ!」と言うのなら、必ず「〇〇じゃない」という意見も存在するかと思います。
Aを「悪」だと言いたいがために、無数にある理論や推測の中から都合のいい「〇〇だ!」という意見のみをピックアップする。
そうして「〇〇じゃない」という意見はすべて「なかったこと」にする。
そういう書き方をされた文章を読んだ人々は「Aは悪なんだね、〇〇だから」と受け止めただけでそれを信じて話を拡散する。
そうやって、その文章を書いた人と「同じような信念を持つ人」の間で物語は拡散され、さらに人々の信念を強化していく。
そこでは誰も「〇〇じゃない」という意見には目を向けようともしない。
私は「性格は変えられないけど、人格は変えられる(補強できる)」と思っているタイプです。
持って生まれた気質のようなものはなかなか変えることができないのでしょうが、後天的に学んで身につけたもの(人格)で調整したり修正したり強化したりはできるのだと思います。
※ 「人格」は「知識」と置き換えてもいいでしょう。
よく「性格、変わったね」とかいう人がいますが、その言葉を投げかけられた側は「そう?別に変わってないけど?」と思うことも多いのではないでしょうか。
「性格が変わった」という安易な言い方に逃げれば楽です。
その人がどんな道のりを歩いてきて、今のその人を作り上げたのか考えないでいいから。
「インドで本当の自分探し!」とかいう言い方がありますが、私はそもそも「本当の自分などいない」と思っているところが大きいので、なんて浅はかな言い方だろうと思います。
インドに旅することで、日本とはあまりにも違う価値観に触れ、そこで「新しい人格を補強する」ことができるのだと思います。
人生は「本当の自分」とやらを「探す」ことではなく、「本当の自分」を「創っていく」過程なんだと考えています。
外宇宙が広がり続けているように、内宇宙も広がり続けるものなのかもしれません。
こういうことを言うと「真実は一つ!」と信じる人に怒られるかもしれませんが、私は「人の数だけ、その人が『真実だ!』とするものが存在しているだけ」だと思います。
科学的に証明された物理法則だとか、数学の定理や公理みたいなものは「真実」に近いのかもしれません。
ただ、それは「私たちがわかっている範囲の中においてのみ」有効となるものでしょう。
よく「五次元世界でなんちゃらかんちゃら」と言う人もいます。
ただ、その「五次元のこと」は私たち三次元に住む人間には認識不可能なことです。
かと言って「五次元はない!」と言いたいわけではありません。
超弦理論(ひも理論)が導き出している世界観では、この世界は10次元だとも11次元だとも言われます。
私は「そういう世界のことを私たちは認識できない」と言いたいだけなのです。
こういう立場を「不可知論者」と呼ぶのかもしれません。
そういう意味で「本当の自分」と「真実」は同じようなものかもしれません。
「ある!」とすれば「ない!」も発生する。
どこまで行っても「二元論」的なものになります。
簡単なところで言えば「天気がいいから気分がいい」だとか「雨が降っているから憂鬱だ」とか、私たちは周りの環境などに大きく影響されています。
「その瞬間」に様々な外的要因に影響されて形成された「その時の私」がいます。
そして「その時の私」を連続したものだと勘違いすることで「固定化された私」がいると人間は錯覚します。
そうでもしないと「とてつもなく不安」だからです。
「『私』ってなに?」の終わりなき問いかけループが発生し、脳みそは恐怖に飲み込まれてしまいます。
とても生きていけたもんじゃないでしょう。
このあたりのことは「自灯明」のお話にも通じます。
私は世界を「ただ見つめる」ことが必要なのだと思います。
瞑想で「自分の心が移り変わるのをただ見つめる」ことを学ぶように。
哲学的な正しい使い方ではないかもしれませんが、この世界を「現象学」的に眺めること。
私はニーチェじゃありませんが、最近陰謀論系の話題に多く触れているうちに「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と言う気分になったので、自分を戒める意味でも、今思うことを書き連ねております。
ある意味で「真実を探すこと」は「怪物」のようなものでしょう。
ニーチェの言葉には前提があります。
「怪物と戦うものはその過程で自らが怪物とならぬよう気をつけよ」
そうそう。
「不可知論」のwikiで知らなかったことを知りました。
古代ギリシアのピュロンなども不可知論者に入れることができる[1]。
古代インドのサンジャヤ・ベーラッティプッタという、ブッダと同時代の人物も不可知論者とされることがある。
釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)は神の存在については肯定も否定もしなかったとされる。ただし、釈迦は仏教の開祖として宗教の枠組みの中に取り込まれた存在であるため、仏教が分派発展していく過程で釈迦が絶対的な存在を肯定している教典が多数存在する。
古代中国においては孔子が「怪力乱神を語らず」という立場であり、これも不可知論者と見ることもできる。
ヨーロッパの中世ではグノーシス派などがgnosis グノーシスによって神の本体を直接に知ることができる、としたのに対して、ローマ・カトリック教会では、神の存在は、人間理性にもともと備わる「自然の光」によって知られるが、神の本体そのものは知られない、神は人間には鏡に映る姿のようにおぼろであり、神と直接に対面できるのは別の世においてである、とした[2]。
近世では、哲学的な説として不可知論が再登場した。人間は有限な存在で知力が限られていて、世界自体が何であるか知ることができない、とする説である。人間の知識というのは、印象と観念に限られて、それらを越えたことは知識の対象にならない、というデイヴィッド・ヒュームの主張も不可知論の一種ととらえることができる[2]。また、カントが『純粋理性批判』において示した、物自体は認識できず、人は主観形式である時間・空間のうちに与えられた現象だけを認識できる、とする考え方も一種の不可知論である[2]。
「positivism ポジティヴィズム」(日本語訳では「実証主義」と訳されている[3])というのは、もともとの表現からも分かるように(神が)人間の感覚に与えているもの(現れさせているもの)だけを問題として扱い(議論し)、その他のことは扱うのは止めよう、とする意味が込められた表現であり、知識を経験可能なことに関するものだけに限ろうとしており感覚に現れないことは「形而上学」として排除しようとする手法であるが、もともとその根底には不可知論がある、と言える。こうした傾向は論理実証主義にも継承された。
サンジャヤ・ベーラッティプッタさんのことは知りませんでした。
ちょっと彼の考え方を学びたいなと思います。
本来的な意味で「ポジティブ」でいたいものです。
こんなに乱れた世の中の時こそ。
とは言え。
認識可能な世界が「陽」であるなら、認識不可能な領域は「陰」な訳で。
陰陽の統合こそが大切ですね。
Uyama Hiroto - Freeform Jazz - 02 Yin And Yang
大いなる統合を願いながら。
また。
「善悪の彼岸」の向こう側へ
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