ようこそ、みなさん。
本日から本格的に「抽象度」という考え方のお話をさせていただこうと思います。
まずはコチラをお読みになられてください。
「分析哲学」について
「抽象度」というのは、もともとは「分析哲学」にあった「概念」です。
「Levels of Abstraction」=「抽象化のレベル」で「抽象度」
「分析哲学」とは
分析哲学(ぶんせきてつがく、英: Analytic philosophy)は、ゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルの論理学的研究に起源を持ち、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの誤解を含め多大な影響を受けた論理実証主義の批判と受容を経て形成された哲学の総称である。学際領域の黎明期[1]に成立している。なお広辞苑によれば、分析哲学の主唱者はジョージ・エドワード・ムーアである。
これは、現代の記号論理学や論理的言語分析、加えて、自然科学の方法及び成果の尊重を通じて形成された。20世紀には英語圏で主流となった哲学である。たとえばアメリカ合衆国の圧倒的多数の大学で、哲学科で教育され研究されるのは「分析哲学」である。これは、イギリスやカナダ、オーストラリアでも同様である。 こうした状況の中で、分析哲学全体に共通する主張といったものを見いだすのは困難である。分析哲学には、多様で共通点のない様々な観点が可能であり、蓋然的な共通点しかない可能性もある。ひどくおおざっぱに言えば、分析哲学は、明晰さの追求と徹底的な論述を特徴とする。
20世紀の大陸ヨーロッパ(特にフランスとドイツ)において主流となった大陸哲学に比較されることもあり、単に「英米(現代)哲学」といえば、この記事で扱う分析哲学を指す場合が多い。
現代的な主流の哲学ということですね。
——まずはじめに分析哲学とはどんな分野か、他の哲学との違いについて教えてください。
おそらく、日本人が思い描く哲学者のイメージというのはドイツやフランスの「大陸哲学」の哲学者だと思います。ハイデガーやデリダなどの大家の哲学者がたくさんいて、彼らが主張していることを丹念に読み解くのが哲学であるというイメージを抱いている方は多いのではないでしょうか。それに対して分析哲学では、過去の哲学者というより、トピックを単位に研究しています。
たとえば、「因果関係とは何か」、つまり、「ある物事が別の物事の原因となるとはどういうことか」というトピックがあるとします。このトピックに対しては、物事には何か因果的な力みたいなものが実在していてそれが作用する、と考える立場もあれば、そのようなものは実在しなくてもよいという立場もあります。こうした複数の立場のあいだで議論し、論理的に批判しあうようなロジカルなプロセスが、いかにも分析哲学っぽいと言えます。
「分析哲学」の使命は"論理の明晰化"にあり – 『フィルカル』編集長・長田怜氏 | academist Journal より
一人の哲学者が「その人の思考の果て」に導き出した哲学ではなく、複数の哲学者によって「ディベート的に」導き出されるものです。
「ディベート」については軽くコチラに書かせていただきました。
G・H・フォン・ヴリグド / 論理分析哲学
※ 九州大学の「哲学・哲学史研究室」の推薦図書になってます。
「分析哲学の祖」とされるのは「ゴットロープ・フレーゲ」さんです。
「哲学史」も面白いので、そのうちやりたいと思います。
※ と言うか、「上っ面の流れ」だけでもみんな知っておくべき。
形而上論(知識そのものを扱う分野)と存在論(存在について扱う分野)などは、コンピューターサイエンスに応用され、それが「人工知能」に繋がっていくのですが、それはまた詳しくお話したいと思います。
※ 私自身、もう少しキチンと理解してから。
「抽象度」って?
前回も書きましたが、しつこくもう一度おさらいに辞書を見てみましょう。
言葉は「あなたの内宇宙を規定するコード」です。
抽象
経験されたもののなかのある特性に注目してこれを取出し,ほかを捨てること。同じ語が捨てられる特性についていわれるとき捨象と訳される。スコラ哲学は抽象を重視,具体的な個物よりその類や種を引出すこと,質料より形相を切り離すことを抽象と考えた。ここで2つの操作を区別しなくてはならない。一つは一個の対象の本質などをとらえること,もう一つは一般者をとらえることで,後者にあっては一群の存在者の共通要素を帰納的に比較考量することが必要である。また意図的な論理的操作としての抽象のほかに,非意志的な抽象があり,E.スーリオは感情の抽象作用を認めた。抽象的とは具体的の対概念で,純粋に思惟的なもの,非直観的なものをいい,必ずしも抽象作用の結果とはかぎらない。
抽象化
抽象化(ちゅうしょうか、英: Abstraction、独: Abstraktion)とは、思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法である[1]。反対に、ある要素を特に抜き出して、これを切り捨てる意味もあり、この用法については捨象(しゃしょう)という[1]。従って、抽象と捨象は盾の両面といえる。
抽象化(ちゅうしょうか、英: Abstraction)は、計算機科学において詳細を捨象し、一度に注目すべき概念を減らすことおよびその仕組みである。
この概念は数学における「抽象化」からのアナロジーである。数学での抽象化技法の起源は数学的定義である。例えば、コンピュータでも数学でも、数はプログラミング言語上の概念であり、数学上の概念でもある。数の計算概念は数学の概念に基づいているため、実装の詳細はハードウェアとソフトウェアに依存したとしても、それが制約とはならない。
大まかに言えば、抽象化は制御抽象化とデータ抽象化に分けられる。制御抽象化は動作の抽象化であり、データ抽象化はデータ構造の抽象化である。例えば、構造化プログラミングでの制御抽象化とは、サブプログラムや定式化された制御フローの使用を意味する。データ抽象化とは、本来ビット列であるデータを意味のある方法で扱うことを意味する。例えば、データ型の背景にある動機は抽象化である。オブジェクト指向プログラミングはデータとコードを同時に抽象化する試みと見ることもできる。
物事の中にある「たくさんの要素」の中から「特定の要素を選び出す」のが、「抽象」であり「抽象化」ということだと思います。
※ 「他の要素は捨てられる」というのがポイント。
じゃあ、その「抽象」って感覚を「度数で表す」って?
「抽象度」とは「情報量の度合い」を表す言葉です。
「何言ってんだコイツ?」という声が聞こえてきました。
例えば
あなたが「ミニチュアシュナウザーという犬種の、名前が『カイザー』というペット」を飼っていたとします。
これを「抽象度が高い順」に並べるとどうなるでしょうか?
少し考えてみてください。
(抽象度が高い)→ ペット
↑
犬
↑
↑
(抽象度が低い)→ カイザーくん
こんな感じになると思います。
次に
あなたが「『ベンツのゲレンデ』という車」に乗っているとします。
これも「抽象度が高い順」に並べるとどうなるでしょうか?
少し考えてみてください。
文字にした情報だけで並べ替えるのなら
(抽象度が高い)→ 車
↑
ベンツ
↑
(抽象度が低い)→ ゲレンデ
という並びになるかと思います。
与えられた情報だけではなく、そこに自分の知識が加わり、さらに細分化させることもできます。
(抽象度が高い)→ 車
↑
ドイツ車
↑
ベンツ
↑
(抽象度が低い)→ ゲレンデ
※ 間に新しい概念(この場合は、どこの国のブランドとされているか?)を区切りにした場合。
(抽象度が高い)→ 乗り物
↑
車
↑
ドイツ車
↑
ベンツ
↑
(抽象度が低い)→ ゲレンデ
※ より抽象度の高い概念(この場合は、人間に対してどのような存在か?)を足した場合。
少し感覚を掴んでいただけましたか?
「抽象度が高い」とは「含まれる情報量が少ない」と言えます。
「抽象度」が高くなると「潜在的に含むことができる情報」は多くなります。
「抽象度が低い」とは「含まれる情報量が多い(つまり具体的)」と言えます。
え?意味わかんないって?
「乗り物」には「飛行機」も「バイク」も「ヨット」も「電車」も、ほかにも色々あるんだから、「抽象度が高い概念ほど情報量は多く含んでるんじゃないの?」ですってぇ???
わかりますわかります。
その疑問、よくわかります。
でも「乗り物」と言う概念は、「乗り物たち」の上位概念なのです。
「乗り物たち」である「車」や「バイク」や「飛行機」や「ボート」などは、「乗り物に潜在的に含まれている概念(情報)」なのです。
誰かがあなたに「私は乗り物に乗ってやってきました。」と告げたら、あなたは「え?どの乗り物?」ってなるでしょ?
「どの乗り物?」が判明しないうちは、「いろんな乗り物の可能性」は「潜在的に含まれている」状態って言えますよね?
先ほどは「ゲレンデという車種から抽象度を上げていく」事例で考えてみました。
今度は「乗り物という概念から抽象度を下げていく」事例を考えてみましょう。
(抽象度が高い)→ 乗り物
↓
車(飛行機やバイクなどの情報は捨てられる)
↓
ドイツ車(アメリカ車や日本車の情報は捨てられる)
↓
ベンツ(他のドイツ車メーカーの情報は捨てられる)
↓
(抽象度が低い)→ ゲレンデ(ベンツの他の車種の情報は捨てられる)
どうでしょうか?
「乗り物」という概念から「抽象度を下げて」行き、「ゲレンデ」というたった一種類の車の車種を選ぶという行為には、様々な「捨てられた情報たち」が隠れています。
「捨てられたように思えて、実は隠れている」と考えてみると
「抽象度」が高くなると「潜在的に含むことができる情報」は多くなります。
というのが理解しやすくなると思います。
「ゲレンデ」は「ゲレンデだけ」ですよね?
「ベンツ」は「『ゲレンデ』と、『ベンツというメーカーのその他の車』(潜在的に含まれる情報)」によって構成された概念ですよね?
※ 「ベンツというメーカーの中での車種」という抽象度のレベルでの話ですが。
「抽象度が低い」とは「含まれる情報量が多い(つまり具体的)」と言えます。
というのも同じですね。
「車」には「ドイツ車」もあれば「日本車」も「アメリカ車」も「イタリア車」も「その他の国の車」もあります。
「車」の抽象度を低くして「ドイツ車」とした場合、その「ドイツ車」には「日本車でもなくイタリア車でもなくアメリカ車でもなくその他の国の車でもない」というカタチで「捨てられた情報(ドイツ以外のいろんな国)」が実は含まれています。
日常生活で「私の車はドイツ車!」という時に、わざわざ「私の車はアメリカ車でもなくイタリア車でもなく日本車でもなくインド車でもなく韓国車でもなく中国車でもなくてドイツ車!」って言いませんよね?
まして「ゲレンデ」のことを「飛行機でも電車でもない乗り物の一種類の中の車の、さらに日本車でもアメリカ車でもないドイツ車の、いろんなメーカーがある中のベンツの中の、いろんな車種の中の特定のゲレンデという車種!」なんて言わないでしょ?
わざわざ言葉にしてみると、文字数が多くなるからわかりやすいですね。(笑)
この辺りの「選びだす」ことが「多くの情報を隠しながら、特定の概念だけを意識していること」と同じであるという事実は「普段は自覚していない感覚」のお話になるので、なかなか理解しにくいと思いますが、「抽象度の高低」と「情報量の含有量」は反比例の関係にあります。
※ 「ゲレンデ」を意識している時は「ゲレンデ以外の乗り物たちはスコトーマになっている」ということですね。
本当に「具体的に説明しよう」と思えば、説明するために「たくさんの情報」が必要になるということです。
う〜ん...
やっぱり中学生ぐらいにもわかるように、わかりやすく説明するのは難しい!
自分で書いてて、ちゃんと伝わるように書けてるか不安です。
対面でご説明できれば「どこまで理解してもらえてるか?」を確認しながらお話しできるんですけど、悲しいかな、ここはブログ。
「抽象度を上げるとどういうメリットがあるのか?」に関するお話は、また次回に書かせていただこうと思います。
現世利益(「頭が良くなる!」とか「お金持ちになれる!」)で「釣る」のが、人気ブログになるためだったり、多くの人に読んでもらうことに繋がったり、最終的には私もお金儲けできたりすることになるんでしょうけど。
どうにも「本当の意味で理解してもらえないのに無闇に広がる。」とか「間違って理解され、おまけに間違って使われる。」こととかあると、それは「まったくもって私の本意とは真逆」なので、慎重にご説明させてもらおうと思います。
理性と知性ある、一部の方々にご理解いただければ幸いです。
Oliver Nelson / The Blues And The Abstract Truth
※ 大好きなアルバム。「まさに!」なタイトル。
Ahmad Jamal / Stolen Moment
www.youtube.com※ そのアルバムに収録されている曲のジャマルver
また。
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