ようこそ、みなさん。
最近「自由・平等・博愛(友愛)」という「『フランス革命』を起源とし、今や『西洋社会の根底を成している』とも思われる『言葉』」について考えていました。
私は「フランス革命=『革命』と呼ばれているだけのテロの一種のようなもの(『明治維新』も似たようなもの)」で「『西洋社会』という概念も、割と最近『捏造された』概念」であり「言葉=常に二面性を孕むもの」と考えているので、要するに「ボロボロに間違ったコードで私たち(自称「先進国の住人たち」)が結び付けられている」と思うわけです。「自由・平等・友愛」について考えたときに。
そんなことを改めて考えるキッカケになった文章を、メモ程度にご紹介させていただきたいと思います。
この文章は「自由」という概念に特化していますが、他の「平等・博愛(友愛)」も似たようなもんだと思います。
「平等」を声高に叫ぶ人やら、「(博/友)愛」を強制的に求める人たち。
その人たちが求めているのは、そして結果的に自分たちが「社会にもたらすことになってしまうもの」は、叫んでいる単語の「真逆のもの」なのかもしれません。
しかし実際には、様々な利害・思想を持った個人の集合体である「民衆」にこれを期待するのは、非常に難しそうだ。強力なリーダー・シップが、実現のためには必要となるだろうし、そのような指導者の存在を常に期待できるとは限らない。
また、コリン・ウィルソンは犯罪一般の問題に還元して、「自由の哲学が狂気に走らないよう、倫理的責任を教える必要がある」と分析する。
「犯罪問題の解決には、どんな手段をとることができるのだろうか?
アメリカでは、カルフォルニアのトマス・ジェファーソン研究財団という機関が、この問題に長年取り組んでいる。この財団のモットーは『自由の代価は責任』で、犯罪の温床は主として教育にあるという基本理念で活動を続けている。
〔略〕
自由は責任と規律がなくても存在できるという思想を広めたのはルソーだが、この問題の責任の大半は、このルソーにある。
1951年、アルベール・カミュは著書『反抗的人間』で、サドからカール・マルクスやレーニンに至る全ての反抗の哲学は、圧政と、自由の破壊とを招いたと、強力な宣言を時代に投げつけた。
これは、左翼に怒りの渦を巻き起こした。
カミュの死後、彼の正しさは現実に証明されるところとなった。自由の哲学は国際的テロリズムの正当化の根拠となった。イタリアのテロリストは大学の教室に押し入って、教授の脚を銃で撃ち、『この教授は基本的に非道徳的な社会に適応する事を学生に鼓吹した罪がある』と嘯いた。チャールズ・マンソンは、自分の追随者は『兄弟愛』から殺人を犯したと、法廷で公言した。
これが自由の哲学の帰結である。自由の哲学が狂気に走った例である。満ちてくる潮のように暴力が社会にのさばる。常に自由を云々して、その正当化を求める。
この種の風潮を見るとき、間違っていたのはルソーで、正しいのはカミュだということを、我々は考えずにはいられない。ルソーの時代には変革を求める強い必然性があり、したがってルソーの思想を認めるべきだとするなら、同じ根拠で今はカミュを認めなければならない。
現代の教育制度に『倫理的責任』を教える能力があるかどうかは分からない。しかし、社会の底辺にのさばっている、この頑迷な自由の哲学を否定する能力はあるはずだ。
この態度に変革を迫ることが、我々の社会の変革の鍵である。」
(コリン・ウィルソン著「現代殺人百科」)より
1971年にコリン・ウィルソンは出版社の依頼で『オカルト』を発表した。「オカルト」ブームの発端の一人である。この時期のウィルソンは宗教や心理学には強い関心を抱いていたが、オカルティズムに対しては懐疑的だった。ウィルソンはラスプーチンとグルジェフを、オカルティズムを超えて評価できる思想家であると考えている。
ウィリアム・ジェームズの超常現象に対する考察「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」に対し、コリン・ウィルソンは、これを「ウィリアム・ジェームズの法則」」と名づけた。
ちょっと日中は慌ただしく、翻訳などする時間がなかったので。
11月は、プライベートがさらに慌ただしくなる(する)予定なので、記事のストックも頑張っていますが、更新頻度が落ちまくるかもしれません。
明日はハロウィンみたいですね。
きっと、本日パーティーしてる人も多いことでしょうが、まったく浮かれた気分にならないような記事を更新してしまいました(笑)
また。
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