ようこそ、みなさん。
今日は「私の世の中の見方」に関するお話を。
先日「京極夏彦作品を読んでもらえれば、私の言いたいことの50%は書いてあります。」と言いましたが 、その中でも特に「姑獲鳥(うぶめ)の夏」という作品(京極夏彦氏のデビュー作)の中で繰り広げられる「あるやり取り」が、主人公の「世の中の見方」を実によく表していると思います。
※ そして「私の世の中の見方」のお手本となったものです。17歳ぐらいだったかな?
主人公である「中禅寺秋彦」という「憑き物落とし」と、その旧友であり「鬱傾向を持つ小説家」である「関口巽」との間に繰り広げられる会話です。
※ 京極作品は見ようによっては「主人公が入れ替わる」構造なんですが、便宜的に。
中禅寺は「京極堂」という古本屋の店主でもあるのですが、そんな彼の店に関口が「ある事件」に対する中禅寺の意見を求め訪ねてくるところから会話は始まります。
※ 以下、中禅寺のことは「京極堂」と表記します。
(京極堂)
「この世には、不思議なことなど何もないのだよ、関口君」
京極堂はそういった。
この言葉は京極堂の口癖である。
いや、座右の銘といっても良い。
言葉の上だけで捉えると、まるで近代合理主義の権化のような意味合いにも受け取れるのだ、どうやらそういう意味ではないらしい。
「姑獲鳥の夏」P.23 より
(京極堂)
「だいたいこの世のなかには、あるべくしてあるものしかないし、起こるべくして起こることしか起こらないのだ。自分たちの知っている、ほんのわずかな常識だの経験だのの範疇で宇宙の凡(すべ)てを解ったような勘違いをしているから、ちょっと常識に外れたことや経験したことがない事件に出くわすと、皆口を揃えてヤレ不思議だの、ヤレ奇態だのと騒ぐことになる。だいたい自分達の素性も成り立ちも考えたことのないような者に、世の中のことなんかが解ってたまるかい」
「姑獲鳥の夏」P.24 より
いきなりなかなか手厳しい。
ですが、その通りだと思います。
宇宙のことなどは特にそうなのですが、何か新しい発見があれば、その10倍ぐらいに謎も深まります。
「知れば知るほど、わからないことは多くなる。」のです。
私たちの探求に終わりはないのです。
私はそれを「とても素晴らしいこと」だと思います。
「知識を得る過程」自体を、いつまでも愛し続けられるのですから。
(関口)
「ーーー僕は確かに、君のいう通り陳腐な常識の範囲でしか物事を捕らえることができないのだ。だからこそこうやって君のところに話を聴きに来るんじゃないか」
(京極堂)
「それじゃあまるで僕が非常識な見識を持っているように聞こえるじゃないか。僕は君なんかよりよっぽど常識人だぜ。それに勘違いをして貰っちゃ困るが、常識だの文化だのを持っているってことは大切なことさ。ただそれは限られた範囲でのみ有効なのであって、遍(あまね)く凡てに応用できるなんて考えることが傲慢だといってるんだ」
「姑獲鳥の夏」P.23 - 24 より
まさに。
「正しい知識」を「幅広く持つべき」であることの重要性が語られます。
※ これが「スコトーマを外す」ことにも繋がります。
そして同時に「弁えるべき」でもあります。
その人が所属する「文化」などによって、私とその人は「世界の見え方」がまるで違います。
究極的には「私の内宇宙」と「あなたの内宇宙」は「別の宇宙」です。
「言葉」は「宇宙と宇宙の橋渡し役」とも言えます。
しばらく「事件」に関するやり取りが続けられます。
(関口)
「君はそういう話が好きじゃあないのかい」
(京極堂)
「誰も嫌いだといってるんじゃあない。創作としての怪談話やなんかはもちろん好きさ。そもそも過去の人人が培(つちか)って来た文化だの精神生活だのを語るなら、所謂(いわゆる)怪異譚というヤツは欠かせない。しかし長い年月の間に、我我は本質を見失っている。江戸時代の山村で交わされる妖怪談と、現代の都市で語られる幽霊談は自(おのず)から意味が違っているのだ。現代人にとっての怪異は理解不能のものでしかないじゃないか。解らないのなら解らんといえばいいものを、下らん理屈をつけて自分の理解し易いように曲解するから何でもかんでもおかしなことになってしまう。霊魂の所為(せい)にすれば方が付くと思ったら大間違いだ。そういう風潮に拍車をかけるような愚かなことが嫌いだといっているんだ」
(関口)
「しかし君は拝み屋のような副業を持っているじゃないか。結構繁盛していると聞いているぜ」
京極堂の副業は憑物(つきもの)を落としたり悪霊を祓(はら)ったりする祈祷師なのだった。もっとも神主を正業と考えればその延長といえるかもしれないが、彼の場合は神道のそれとは違い、何と祓われる方の信仰している宗派のやり方で違うというか、一風変わったものである。これが大層評判がいい。しかし彼はその変わった商売については多くを語りたがらないのである。
「姑獲鳥の夏」P.27 より
「都市伝説」とかですね。
本当に迷惑な話です。
人々を惑わすために配置された装置であるとしか思えません。
やり取りは続きます。
(京極堂)
「関口君、君の書く駄文と違って、宗教というのは実に論理的なものだ。奇跡だの幻視だのエキセントリックな部分だけを切り取って拡大するから何やら不気味なものに変容してしまうんだ。だから自然科学の整合性に反する部分だけが目について、骨の髄(ずい)まで合理的にできている現代人とやらの目には胡散臭(うさんくさ)く映るのだ。かといって、そういった非合理的な部分は凡(すべ)て喩(たと)え話だ、教訓だの考えるのも間違っている。だったらもっと解りやすい喩えは山程あるし、そんな抹香臭(まっこうくさ)い創り話は沢山だということになる」
「姑獲鳥の夏」P.28 より
宗教は「実に論理的なもの」であるからこそ、実に厄介とも言えます。
宗教を胡散臭いものだとは思っていませんが、先日ある宗教の信者の方と意見をやりとりさせていただくことがあり痛感しました。
その方達が信じるモノよりも、おそらく「大きな視点」で「神としか呼べないような存在」を私が捉えている場合、どうやってもなかなか「こちらの宗教観としか呼べないもの」を理解していただくことが難しいのです。
どちらが上か下か?という問題ではなく、単純に「私の信じるものは、あなたの信じるものを含みます。」ということなのですが。
※ これも「抽象度を上げる」という話に繋がります。
(京極堂)
「ーーー絵空事だ、嘘っぱちだと否定したところで、あるいは道徳です、教訓ですと言い換えたところで、この世に宗教があることに変わりはないだろう。結局無信心な輩(やから)は信心を馬鹿にする。一方信心を持つ者はそうでない奴等を駄目だという。僕はその橋渡しをしているに過ぎない。憑物落(つきものお)としなんてものは誰にだってできる。しかし宗教者はそうは思わない。科学者も範疇(はんちゅう)外と判断する。だからいつだってぎくしゃくするのさ。お互いに、見えるものを見ずに、見えないから存在しないと思っているんだ」
(関口)
「どうにも君にしちゃ話が抽象的だ。要するに今まで非科学的だと思われていた領域を科学的に改名して、憑物や祟り何かの治療に応用しているってことだろう。くどくどと理屈をいっているが君がさっき大馬鹿者扱いにした心霊科学と同じじゃないか」
(京極堂)
「違うさ。科学というのは普遍的であるべきものだ。しかし心だ、霊だ、魂だ、神だ仏だってのはそうはいかない。どんな同じ宗派だろうが、人が別なら別別だ。だから科学で扱える分野ではない。脳の動きひとつ物理的に解明できていないのに、心だの霊だのが解る訳ないじゃないか。心霊というのは科学で扱えない唯一の分野なのさ。だから心霊科学というのは言葉として破綻しているじゃないか」
「姑獲鳥の夏」P.29 より
「AI」にしろ「トランスヒューマニズム」にしろ、このあたりのことを「弁えずにごちゃ混ぜにして」広まっています。
ただし、「多くの人がそうである」と信じることは現実世界でも力を持ちます。
(関口)
「しかし君はさっき科学と宗教の橋渡しみたいなことをいっていたじゃないか」
(京極堂)
「だから橋渡しさ。科学者にも昼間から幽霊を見せてあげて、宗教者には呪文を唱えずとも幽霊を消せるようにしてあげるんだ。要するにああいったものは脳味噌が自己正当化しているようなものだからね」
解らなかった。
(関口)
「それは幽霊は存在しない、という、主張とも違うのかね?」
(京極堂)
「いや、幽霊はいるよ。見えるし、触(さわ)れるし、声も聞こえるのさ。しかし存在はしない。だから科学では扱えない。でも科学で扱えないから、絵空事だ、存在しないというのは間違ってるよ。実際いるんだから」
私はかなり混乱した。京極堂はそんな私を情けない子を見る親のような目つきで見ると先程の壺をつるりと撫でた。
(京極堂)
「だから君の書くような記事は僕の仕事には悪影響になるんだ。幽霊だの怨霊だのが恰(あたか)も存在するかのようにケレンたっぷりに書くだろう。科学じゃ所詮(しょせん)解らないものを、解ったように書く。またはいずれ解明されるだろうとも書く。さもなければこの世には科学で解明できない恐ろしいものがあるのだなんて書く。両方書くじゃないか。科学的には永久にわからないんだから科学のシンパはいずれもそんなものは非科学的だと否定する。神秘主義者はより閉鎖的になってそれこそ昔の公家みたいに効きもしない護符だの呪いでたんまり儲けるーーー」
京極堂はそこで実に嫌そうな顔をして、こう結んだ。
(京極堂)
「ーーー心霊科学などという猫の産んだ卵みたいなものまでできる」
「姑獲鳥の夏」P.30 - 31 より
「宗教と科学が正しいバランスを取る時代」を迎えるべきと思う訳です。
いかがでしたでしょうか?
ここまでで「『姑獲鳥の夏』の冒頭部分にある重要なやり取り」の1/3程度です。(笑)
実は、先日ご紹介した「アドレノクロム」に関連して、ついでに「QAnon」のことをご紹介しようと思っていたのですが。
自分でチマチマとまとめても良かったのですが、「Know Your Meme」にある「QAnonまとめ情報」が実によくまとめられていると感じまして。
そちらを翻訳するだけにしておこうと思っていたのですが、いざ翻訳しだすと「軍事用語」やら「固有名詞の略語」やら、日本人にはわかりにくいものが多々ありまして。
なので、そちらはじっくり取り組むことにしまして、先にこのお話を書かせていただいた訳です。
京極夏彦先生には大変に申し訳ないのですが、とても大事なことだと思いますのでもう少し続けさせていただこうと思います。
思い返せば17歳ぐらいで京極夏彦作品に出会い、擦り切れる度に中古でまた購入し、幾度も繰り返し読んできました。
「忘れたから読む」とか「楽しむために読む」とかではなく、私は「私にとってのお経のようなもの」として読んできたことに気づきました。
「主人公の思考回路を自分にトレースするため」に、繰り返し読んできたのです。
そして「この身に染み込ませるため」にでもあります。
「物語(虚構)」の力については、また別に詳しく書きたいと思いますが、このように「人間を騙すこと」もできれば「人間に良い影響を与えること」もできると思います。
書きたいことは山積みですが、長くなりそうなので今日はこれぐらいで。
Alice Coltarane / Journey In Satchidananda
youtu.be※ 「ドローン気分」が続いているのでコチラを。
また。
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