ようこそ、みなさん。
今日も「私の世の中の見方」に関するお話を。
月岡芳年「幽霊之図 うぶめ」肉筆絹本
By 月岡芳年 1839-1892 - 瀬木慎一編『月岡芳年画集』講談社、1978年3月
(SEGI, Shin’ichi (1978) Tsukioka Yoshitoshi Gashu), Public Domain, Link
前回の記事はコチラ
京極堂と関口のやり取りは続きます。
(関口)
「なる程はっきりとは解らないが、所所(ところどころ)は解るよ。しかし君の論法で行くと僕が齧(かじ)った心理学や精神神経医学はどうなるんだね」
私は胸のポケットから紙巻と燐寸(マッチ)を出した。
火を点けると一瞬燐(りん)の燃えるツンとした匂いがする。私はこの匂いが結構好きだ。
「心が科学で扱えないんだとすると、やはりまやかしだというのかい?」
(京極堂)
「神経の仕組みは皆同じさ。神経の病を直すのが神経医学だろう。これは痔を直すのと一緒だ。神経は脳に繋(つな)がっている。脳仕組みもまた然りだ。あまり進んではいないが、そのうちには痔のように治療できるようになるさ」
(関口)
「痔、痔というが、痔は今でもそんなに簡単には直らないぜ」
(京極堂)
「つまらないことをいって話の腰を折るもんじゃあない」
京極堂はそういうと可笑(おか)しそうに笑った。
(京極堂)
「つまりね、脳や神経といった体の器官を心や魂そのものだと考えるから間違うんだ。かの井上博士なども、ここんところを勘違いして、何でも彼(か)でも神経の所為(せい)にしたものだから、結果的にはあれ程好きだったお化けをみんな否定しなくちゃ行けなくなってしまった」
「姑獲鳥の夏」P.31 より
何だか可哀想じゃないかーーーと京極堂はいった。
井上博士というのは、明治の哲学博士、井上圓了(いのうえ えんりょう)のことらしい。
(関口)
「しかし神経がいかれてしまって怪異を見ることは現にあるじゃないか。井上圓了は明治時代の人間にしてはけだし進歩的じゃないか。そんなに悪くいうことはない」
(京極堂)
「別に悪くなんかいってないだろう。可哀想だといったんだ。それに君のいう通り脳や神経が心と緊密な関係を持っているのは確かだろう。だからといって同じ者だってことにはならんのさ」
(中略)
「心と脳は餅つ持たれつ、まあやくざと水商売みたいなものだ。どちらかがいかれるとそうとう面倒な揉(も)め事が起きる。だがこれはそれぞれが満足さえすれば概(おおむ)ね収まる。脳や神経には物理的な治療が施せるしね。でも心がそれらの器官と別物だという証拠に、それらが正常な状態に戻っても揉め事が収まらないという場合がある。そんなとき宗教は有効なのだ。宗教とは、つまり脳が心を支配すべく作り出した神聖なる詭弁(きべん)だからね」
「姑獲鳥の夏」P.32 より
「宗教とは、脳が心を支配すべく作り出した神聖なる詭弁」
蓋(けだ)し、名言だと思います。
「じゃあ、心って何?」という話になってきますが、これには私なりに「ある仮説」が存在しています。
※ そのお話は、またそのうち。
そして話題は「心理学」へと移っていきます。
(関口)
「しかし心理学の方はどうなんだい?」
(京極堂)
「あれは文学の部類さ。共感できるものにのみ有効なんだ。科学の産んだ文学だ」
京極堂は愉快そうに笑った。
「心理学は民俗学と比較すると面白い。心理学は個人個人の患者からサムプルを採って一応は一般的な法則を導き出そうとするんだろう?民俗学は村やなんかの共同体から共通のサムプルを採って法則性を探る。しかし両方とも最終的には個人に還元されてしまう。文学的なんだな。柳田翁(やなぎだおう)の論文などは如何(いか)にも文学だ。名文すぎて論文らしくないじゃないか。心理学もいっそ文学者に和訳させて、小説として売ったほうがいいかもしれない。そうだ、君がやりたまえ」
「姑獲鳥の夏」P.33 より
私が図書館に立てこもるようにしていた青春時代。
実は一番よく読んでいたのは「心理学」に関しての書物たちでした。
※ 一応「悩める青年」だったもので。(笑)
その時に漠然と思っていたのも、京極堂が語るのと同じようなことです。
「心理学って、素因数分解的だな」と。
人間、一人一人違います。
私が「1583675」だとして、あなたは「46953218」だとしましょう。
私とあなたに共通する数は?
そうやって人類全員を素因数分解していって、みんなに共通する「最大公約数」的なものを法則とする。
そんなイメージを心理学に対して抱いたものです。
※ 当時の雑なイメージです。今はもっと繊細なイメージになりました。
そして、その「最大公約数的な何か」で個人を治療しようとする。
その後、個人的に「心療内科のお世話になる人」とも関わりがあり、長年に渡ってその人の経過なども間近で見てきました。
私自身も、お世話にならないといけないかもしれない状況になったこともあります。
よほど腕の立つ(というか、人を見る目のある)医者じゃないと「とんでもないことになる」と思っていたし、まして「処方されるであろう薬」の知識(副作用的なものも含めて)もかなりある方でしたので、そもそも通いませんでしたが。
※ それこそ「対機説法」レベルの治療が必要になってくる問題だと、今では認識しています。
お医者様で対応できる領分と、そうでない領分があるのでしょう。
「心」とは実に厄介なものです。
※ そのお話は、また詳しく。
やり取りは「意識と無意識」に関する話題へ。
(関口)
「ーーーしかし、先の話で君が心と呼んでいたものは、心理学でいうところの意識、無意識とはまた違うのかね」
(京極堂)
「意識こそ重要だ。君がつまらん小説を読むのも、この壺を見るのも、はたまた存在しない幽霊を見るのも、意識あってこそだ」
(関口)
「また解らんことをいう。心と脳は別別でその他にもまだ意識が別にあるのかい?」
(京極堂)
「世界は二つに分けられる」
(関口)
「何だって?」
「姑獲鳥の夏」P.34 より
今、このブログをお読みいただいているのも「あなたの意識」あってのことです。
ある意味で、この話の核心に迫る話題へ。
(京極堂)
「つまり人間の内に開かれた世界と、この外の世界だ。外の世界は自然界の物理法則に完全に従っている。内の世界はそれをまったく無視している。人間は生きて行くためにこの二つを巧(うま)く添(そ)い遂(と)げさせなくちゃあならない。生きている限り、目や耳、手や足、その他身体中から外の情報は滅多矢鱈(めったやたら)に入って来る。これを交通整理するのが脳の役割だ。脳は整理した情報を解り易く取り纏(まと)めて心の側に進呈する。一方、内の方では内の方で色々起きていて、これはこれで処理しなくちゃならないのだが、どうにも理屈の通じない世界だから手に負えない。そこでこれも脳に委託して処理して貰う。脳の方は釈然としないが、何といっても心は主筋に当たる訳で、いうことを聞かぬわけにいかない。この脳と心の交易の場がつまり意識だ。内なる世界の心は脳と取引して初めて意識という外の世界に通じる形になる。外なる世界のできごとは脳を通して訪れ意識となって初めて内の世界に採り込まれる。意識は、まあ鎖国時代の出島みたいなもんだ」
「姑獲鳥の夏」P.35 より
私は以前に「『心』と『意識』と『脳』は別である」と書きましたが、その理屈というか仮説は、この文章が一番わかりやすいでしょう。
私は「『心と意識』は『内宇宙』に属し、『意識と脳』は『外宇宙』に属している」と考えた方がいいのかな?と思っています。
または、「意識はマージナル(境界的なもの)である」としてもいいでしょう。
この仮説をさらに進めた結果として、ある理論体系の仮説はあるのですが。
それはまた別に詳しく。
(関口)
「潜在意識というのは君の仮説ではどういう解釈になるんだい?」
京極堂は私の反撃の凡(すべ)てをいい切る前に考える間もなく答えた。
(京極堂)
「脳味噌というのは層になっている。皮が幾重にもなっている饅頭(まんじゅう)のようなものだ。これは下へ行くほど発生が古い。餡子(あんこ)のところは一番古い。動物の脳だね。これは主に本能というヤツを司(つかさど)る。本能は、生まれつき備わっていると考えがちだが、これも胎児の頃に親から掠(かす)め盗ったっ情報、つまり学習した記憶だと考えた方が筋が通る。胎児にだって脳はあるからね。夢も見る。最低限生きて行くのに必要な知識は何らかの形で親の脳から戴くのさ。まあ動物の場合、この最低限の脳のままで一生を送る訳だ。しかしそんな脳でも外からの情報を一手に引き受けて処理してることには変わりはない。(中略)」
(関口)
「なる程、その古い脳と心との交易が潜在意識だという訳かい。明瞭には認識できないが、いつもはあることはある訳だな。」
(京極堂)
「だからけだものは幸福なのだ」
「姑獲鳥の夏」P.36 -37 より
これが、スピリチュアルなどで言われるところの「Be Here Now」だったり、「在るが儘」だったり、「ただ在ればいい」だったりするのだと思います。
ラム・ダス / Be Here Now
※ この境地ばかり目指しているから「ヒッピー文化はそこ止まり」なのかも。
もっと言えば、「仏性」だったり「一切衆生悉有仏性」だったり「草木国土悉皆成仏」にも通じてきます。
※ このあたりも、そのうち。
村上龍の小説に「愛と幻想のファシズム」という作品があるのですが、このお話の主人公は「野生動物」に非常に憧れを抱いていました。
狩猟者の視点で物事を捉え、野生動物のようにシンプルに生きようとする男の話です。
※ この小説にも大きな影響を受けました。
まぁ、私が自己診断で「俺って狩猟採取型っぽいな」と思い込むようになったのも、そのせいかもしれません。(笑)
あまりにも「人間」と「自然」は切り離されてしまっています。
「人間自らが分けている」とも言えるかもしれません。
「大いなる循環」の外へ、自らを分け隔ててしまいました。
そして「心」のことを考える時。
今私の脳裏に浮かぶのは「グッド・ウィル・ハンティング」という映画です。
観るたびに「マット・デーモン演じる主人公(ウィル・ハンティング)」に感情移入してしまいます。
どこかで自分を重ね合わせてしまうのでしょう。
そして「ロビン・ウィリアムズ演じる精神科医」のような人が「若い頃にいてくれたらなぁ」と思ってしまいます。
※ ロビン・ウィリアムズの映画にハズレなし。大好き。
「人を導くこと」を教えてくれる映画です。
あまりにも素晴らしい映画なので、是非。
もう少しだけ続きますが、それはまた明日。
Miss Misery / Elliott Smith
www.youtube.com※ 「グッド・ウィル・ハンティング」のエンディングソング。好きだった人はみんないなくなっていきます。
また。
↓良ければポチっと応援お願いします↓