ご心配おかけいたしました。
「世界がとんでもない状況の中」ではありますが、今しばらくお付き合いいただければ幸いです。
改めまして。
ようこそ、みなさん。
はじめに
いきなり個人的な話からですが、今日、「思いついたこと(大統領の行方とか)」は「Twitterに、メモ的に書き込めばいいんだ」と云うことを思い出しました。
※ Twitter社、もしかしたら「終わるかも?」と云うタイミングで、今更(笑)
本来、Twitterなんて、そんな「メモ代わり程度の使い方」で良いでしょう。
本題へ。
人は誰しも「悩み」だったり「迷い」だったり「後悔」だったり、もっと言えば「言葉にならない何かしら」を抱えて生きているのではないでしょうか?
そこで、私の愛読書である『鉄鼠の檻』と云う小説より「とあるエピソード」を「楽になるためのヒント」としてご紹介させて頂こうと思います。
端的に云うと「(ある種の)悟り」にも、関係してくるお話です。
「彼」を通して、みなさまにも何か参考となることがあるはずです。
まずは、その「彼の抱えてきたもの」というのをご理解頂いてからの方が、私が「本来ご紹介しようと思っていた部分」への理解が深まると思いましたので、かなり長い引用になりますがお付き合いくださいますと幸いです。
今川雅澄(いまがわ まさすみ)
宿泊客。骨董商「待古庵」を営む駆け出しの骨董屋。戦時中は榎木津の部下だった。了稔に呼ばれ、取引のために仙石楼に逗留する。
このような人物の話です。
場面は
久遠寺嘉親(くおんじ よしちか)
元医者。『姑獲鳥の夏』での事件で一夜にして妻と娘2人を失って以降、医者を辞めて「仙石楼」で居候をしている。
と云う人物との、初対面での会話になります。
ちなみに「鉄鼠」とは
鉄鼠(てっそ)は、平安時代の園城寺の僧頼豪の怨霊とネズミにまつわる日本の妖怪。「鉄鼠」の名は江戸時代の妖怪画集『画図百鬼夜行』において作者鳥山石燕がつけた名であり[4]、『平家物語』の読み本『延慶本』では頼豪の名をとって頼豪鼠(らいごうねずみ)[5]、妖怪を主題とした江戸時代の狂歌絵本『狂歌百物語』では由来である滋賀県大津市の三井寺(園城寺)の名をとって三井寺鼠(みいでらねずみ)ともいう[6]。平成以降には京極夏彦による推理小説『鉄鼠の檻』の題名に採用されたことでも知られるようになった[7]。
ja.wikipedia.org より抜粋
こう云う「妖怪」です。
※ 妖怪は「概念の集合体」であり、それに「名前を与えたもの」だと思ってください。
それでは早速。
今川雅澄の回想
今川はその上に正座すると、少しだけ間を置いて自らの来歴を語った。
今川の実家を云うのは代代蒔絵(まきえ)を描く絵師の家系である。これが結構由緒正しい。父はその名を十三代泉右衛門(せんえもん)と云い、今川自身長男であったなら十四代を襲名するところだった。幸いにもと云うか不幸にもと云うか、今川は次男であったため、その古めかしい名を継ぐことを免れたのである。
今川はまずそのことを告げた。古物商になって日が浅いことを語るための、延(ひ)いては古物商になるまでの経緯を語るための、これは前振りである。但しそう云う説明は一切なかったため実に唐突な語り出しになった。その割りに老人は驚いた様子もなく、
「十三代ちゅうと、大分古いですなぁ」
と切り返した。
「はあ、何でも元を辿れば戦国の、今川義元(いまがわよしもと)公のところに行き着くとか着かぬとか」
ー と云う話を今川は善く祖父から聞かされた。
『鉄鼠の檻』17P. より
祖父とは勿論十二代泉右衛門である。しかし一向真面目に聞いていなかったからか善くは覚えていない。家を継ぐ身ではないと云う、ある意味無責任な立場がその出自に対する無自覚を促したものか、或(ある)いは聞いたところでどうせ家は継がぬと云う、一種屈折した想い耳を閉ざさせたのか、それは判然としないのだが、いずれにしても先祖が今川義元だろうが武田信玄(たけだしんげん)だろうが、今川にはどうでも良かった。
顔つきだけなら伝えられる信玄像の方が自分には似ている ー 今川の感想はそんなものである。
何はともあれ、今川がそう云う家系の一員であることは間違いない。勿論そんな、家柄などと云うお化けは、現代社会に於いては邪魔になりこそすれ何の得もないと、今川自身はそう考えている。実際華族だ士族だと云う連中は今や概(おおむ)ね没落しているから、その私見自体は強(あなが)ち間違ってはいないと思う。
ただ、今川の実家は多少事情が特殊である。技術の継承だの伝統の保持だのと云う使命がある。そのお陰か、そうそう落墜(らくつい)することなく今日に至っているのだが、これが分家となると別で、歴史や伝統に根差した緊張感と云う奴がない。背骨がすっかり抜けている。だから分家の方はご多分に洩れず、ただ権威の上に胡座(あぐら)をかいた風の為体(ていたらく)である。分家の叔父と云う人が正にそう云う人だったようで、兎に角(とにかく)人の下で働くことをしなかったのだそうだ。旧幕時代ならば兎も角、昭和の時代にそれで通る訳もない。結果暮らしに困り、貧すれば鈍するの諺(ことわざ)通り見る間に駄目になり、遂に生計も立ち行かなくなった。全く絵に描いたような斜陽属だった訳である。
その叔父の子、つまり今川の従兄弟(いとこ)だか又従兄弟だかが、傾いた家計を立て直すために始めたのが何を隠そう古物商なのである。落魄(おちぶ)れたとは云え旧家であるから、蔵には古(いにしえ)のお宝が山のようにあり、それを処分したと云うのがそもそもだったらしいのだが、それが結構な利を生んで、それに味を占めた結果の商(あきない)と云う訳である。
『鉄鼠の檻』18P. より
ただ、そうした家柄のせいか、従兄弟の骨董に対する目は実に肥えていたらしい。そのうえ商才もあったと見えて、あっと云う間に結構な目利きとして名を為してしまった。初めのうちは店を持たぬ果師(はたし)と呼ばれる奴だったらしいが、二三年で青山に立派な店舗を構えた。その名を『骨董今川』と云った。
本家、つまり今川の実家では当時その商売を卑(いや)しきものと判断したらしい。そこで分家の扱いに就いては一族間で少なからぬ悶着(もんちゃく)があったのだそうだ。だが、そうこうしているうちに太平洋戦争が始まってしまい、結果有耶無耶(うやむや)になって、『骨董今川』は残った。
そして ー
戦地で大怪我(けが)をして復員した従兄弟が死んだのは三年前である。分家の血は絶え、骨董屋の店だけが残り、再び一族間で侃侃諤諤(かんかんがくがく)と揉めごとが起きた。今川は何となくその揉め方が気に入らなかった。だから本家次男の自分が店を継ぐと名乗りを上げた。
今川は猛反対の親族総攻撃 ー を予想していた。
だが不思議なことに反発は一切なく、本家次男の提案に面と向かって異を唱える係累(けいるい)は誰ひとりとしていなかった。今川の父があっさりと許してしまったせいである。その父の胸の内は今川には解らぬ。
そして今川雅澄は古物商になった。
屋号も『待古庵(まちこあん)』と改めた。
引き継ぎに当たって屋号から今川の名を廃した訳だが、大きな理由はない。
マチコと云うのは幼い頃の渾名(あだな)である。待古と字を当てたのは、何となく骨董屋に相応(ふさわ)しいような気がしたからで、由由しき故事来歴がある訳ではないのだ。その方が自分に合っているように今川には思えたのだが、客は大抵字を見てなる程を納得する。
取り分け説明はしない。
そんなものだ、と思う。今川待古庵はいつもそれなりに懸命で、それでいてどこか醒(さ)めている。
今年 ー 昭和二十八年 ー でまだ二年目である。
『鉄鼠の檻』19P. より
久遠寺老人はやけに感心した様子で、今川が語り終えると何度も頷いた。
「しかしあんた、善く許して貰ったもんだなぁ。一抜けた、と簡単に抜けられるもんでもなかろうに。本家の次男坊と云えば一族の中でもその、なんちゅうか、位が高かろう」
「とんでもない。長子と次男では雲泥(うんでい)の差があるのです。うちは五人兄弟で皆男ですが、長男から次男三男四男と順に格が下がって行くと云った具合にはいかないのです。長子は家長、昔で云えば殿様で、次男以下は凡(すべ)て家臣、家来なのです」
「そんなもんかね」
「そうなのです。例えば、そう、うちには一応蒔絵の技法に就いての秘伝と云うのが伝わっていて、この秘伝は代代家長が受け継ぐのですが、それを一子相伝と云うことになっています。僕は兄の身に何か起きでもしない限り、生涯それを教えては貰えないのです。それだけ差があるのです」
「そりゃ酷(ひど)いな。あんた、そう云う文化的価値のあるもんは今時そんなんじゃいかんじゃろ。独占しちゃいかん。公開するべきじゃないか。あんた、そうだ、旧家なら古文書だの秘伝書だのあるんだろう。そう云うのも読むことはできんのかね」
「その手のことは凡て口伝(くでん)です。文字では残さないのです」
「そりゃあ非合理的じゃないかね。もし知ってる者が事故にでも遭ったら、その技は絶えてしまうんじゃあないのか」
「しかし、文字で書き記すことのできぬものと云うのはあるでしょう。それにいつ絶えるか解らないからこそ価値があるのかもしれません。ひょっとしたらそんな秘伝は中身がないのかもしれない。でも誰も知らないから価値が出る。それならそれでいいのです。ただ、僕はそれを継ぐ資格がなかったと ー ただそれだけです。だから家を出て商売を始めてもそれ程問題にならなかったのです」
『鉄鼠の檻』20P. より
「なる程なあ。そりゃ何とも、微妙な立場ではあるわなあ。うん」
そう云って、老人は更にううん、と唸った。そして何か思うところでもあるのか、暫く考えて、
「あんた、中中いいですよ。そんな、古い因習なんてものは早早立ち切った方がいいんだから。特に家などと云うもんからはおん出て正解じゃな。いや、善く決断したもんだ。英断じゃ」
と、納得したように云った。
今川は少し面食らって目を剝(む)いた。
「いや、僕には別段強い意志があった訳でもないのです。ただ半端な立場で困っていただけなのです」
「そりゃあ、伝統と革新、家系と個人、名誉ある束縛と名誉なき自由の板挟み、そう云った意味の半端ですかな」
「そうではないのです。どうもご老体は僕の話を大袈裟(おおげさ)に聞かれています。うちは、まあ旧家ではありますがそれ程因習に囚(とら)われている家系でもないし、そのうえ名前さえ継げば一生安泰と云うこともないのです。腕が悪ければそれまでです。名を継いだ以上拙(まず)い仕事はできません。本家の跡取りは云ってみれば家元で、それが下手糞(へたくそ)ではどうもこうもない。家業を継いだ場合職人的な技術習得の努力は、寧(むし)ろ人一倍要るのです。だから、長子の場合は却(かえ)ってプレッシャアがある訳です。僕には幸いそれがない。しかし次男ですから、何かの時には家を継がねばならんのです。すると他の職業に就いてしまうのも何となく腰が座らない。気楽なんだかそうでないんだか判らない。そう云う半端です」
「そう云う半端か」
「そうなのです」
「ああ」
老人は今度は顎を突き出して、
「まあ、解らんでもない」
と云った。
『鉄鼠の檻』21P. より
久遠寺老が「今川の話にこういう見解を抱いたのは何故か?」と云うのは、前作の『姑獲鳥の夏』にて語られた「ある哀しい事件」が非常に深く関わります。その事件があったからこそ、久遠寺老は「境涯が変化した」とも言えるでしょう。
※ 「『姑獲鳥の夏』の頃の久遠寺さん」からは、絶対に「このような感想」は出てこなかったことでしょう。
続きます。
しかし続く老人の問いは唐突だった。
「変なことを尋くようだが ー あんたそれじゃあ父上や兄上に要らぬ劣等感(コンプレックス)があった、と云う訳でもないんだな」
どうも久遠寺老人の思考回路は今川には掴み難いようである。今川の発言は、悉(ことごと)く彼(か)の禿頭の中で老人に都合良く変換され、実に突拍子もない対題(たいだい)となって返って来る。その問いが生産され、言葉として発せられるまでには当然某(なにがし)かの理屈があるのだろうが、今川にはその理屈が解らない。畢竟(ひっきょう)その理屈は老人の人生観なり主義主張なりに即したものなのであろうが、それとても今川の与(あずか)り知らぬことである。だが状況は相手にしても同じことだろう。
つまりは御互い様だ。
だから今川はそれ程深く考えずに答えた。
「まあ、ないと云えば嘘になります。父は家柄を抜きにしても蒔絵師としては一流で、芸術家として尊敬できます。兄も技術的な水準は高いです。僕がその二人の域に達することはかなり難しいです。だから、劣等感がなかった訳でもないのです。しかし父は豪放磊落(ごうほうらいらく)、兄は呑気(のんき)な人ですから、家族関係は実に和(なご)やかなもので、父や兄に反発を覚えたことはないのです。大層なのは襲名する名前だけで、その何しても人生賭けて反発する程の名ではないです。それだけです」
「あんた、正直な男だな。吃驚(びっくり)する程じゃ」
老人は口を窄(すぼ)めてそう云ってから、
「まあそうは云うものの、本当はあんた大物なのかもしれんな。いやいや、見た目はどうにも大物風の顔付きじゃわい」
と続けて、大いに笑った。
今川もつられて笑ってはみたが、その心中はやや複雑である。
慥(たし)かに表向き父や兄との関係は良好で、今のところ関係が破綻するような兆(きざ)しはない。不安要素とて何もない。今の発言通り、父のことは尊敬しているし、兄に遺恨がある訳でもない。老人の云った通りそれが正直な発言であることに間違いはない。
ただ劣等感は明瞭(はっきり)と持っている。それは、ないと云えば嘘になる、と云った程度のものではない。
その昔、今川の描く絵を評して父はこう云った。
ー 巧(うま)く描(か)こうとしているな。
無論だった。わざと下手に描こうとする者などはいない。巧く描こうとすることのどこがいけないのか、その時の今川には全然理解できなかった。
その時期。今川は、もしかしたら家名を継ぐのは兄ではなく自分なのではなかろうかと ー それでも少しは思っていたのだ。長男を差し置いて次男が家を継ぐことなどあり得ぬと、それは充分承知していたが、それでも尚そう思ったのには理由があった。
今川は幼い頃から絵を描くのが好きだったし、描けば描いたなりの仕上がりになったから、もしや己には才能と云う面映(おもは)ゆい奴が備わってい流のではなかろうか、と内心予感していた ー 否(いな)、確信していたのかもしれぬ。だから今川は絵の勉強だけは熱心で、日本画に止まらず西洋画の手法などを学んだりもした。一方兄の方は、漆(うるし)工芸と絵画の間に関連性を見出せなかったようで、ただ愚直に父の型を倣(なら)っていた。今川の目に映る兄の絵は堅実過ぎて面白味に欠け、尚且(なおかつ)まるで新しさが感じられなかった。
今川が兄を差し置いて跡目云云(うんぬん)と考えたのは、まさにそこに由来している。
蒔絵は単なる伝統工芸ではない。日本が海外に誇るべき芸術である。しかし、奈良の昔に始まり連綿と進歩向上を続けて来たそれが、江戸の末に至ってどうやらその歩みを止めてしまった。明治を過ぎ現代に至るにそれは完全な工芸品に堕してしまった。このままでいい訳がない。自分には技がある。向学心もある。センスもある。仮令(たとえ)十四代を継ぐのは長男であったとしても、自分は違う意味で今川家に必要とされるはずである ー そう思っていたのだ。
『鉄鼠の檻』22 - 23P. より
しかし今川の、その一種確信めいた気負いは、豪(えら)くあっけなく消し飛んでしまった。
ー 巧く描こうとするな。
父は今川の技巧を小手先のものと判断したのだ。
絵は手に持った筆で描くものだ。つまりはどうやったところで小手先の技なのである。それ以外の何だと云うのか、今川には解らなかった。
父はこうも云った。
ー 蒔絵師は芸術家に非ず。家業を継ぐ気ならばつまらぬことに心血を注ぐな。
今川が思うに、芸術を生み出す者こそが芸術家と呼ばれるのであろう。今川にとって蒔絵は立派な芸術だ。ならば蒔絵師も立派な芸術家ではないか。
新しい道を模索することのどこがいけないのか。
蒔絵は、平安に研出(とぎだし)蒔絵の技法が確立して以来、室町にはより誇張的な表現を求めて高(たか)蒔絵が完成し桃山には更に装飾的な平(ひら)蒔絵を云う技法を創り出した。途中、欧羅巴(ヨーロッパ)美術を取り込んだ南蛮(なんばん)蒔絵などの斬新な様式も開発されている。蒔絵は常に時代に応じた表現を開発して来たと云う歴史を持っているのである。それらはどれも滅びることなく併存し、江戸に入って後も本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や尾形光琳(おがたこうりん)などの新しい才能を生み出した。それが、今や工芸品である。
事実他の流派では明治以降も様様な試みが模索されている。今川流とても伝統に齧(かじ)りついた護(まも)りの姿勢だけで良い訳がない。そもそも高い志を持たずして芸術が創り出せるものだろうか。せいぜい工芸品と云う高の括(くく)り方が堕落の原因ではあるまいか。
そう云うと、父は怒った。今川は慌てて弁解した。
今川の発言は父自身を愚弄する言葉としても受け取れたからだ。今川は父を尊敬し、その作品も高く評価していたから、勿論それは違う。今川の云う堕落は、蒔絵そのものの文化的価値の堕落である。
しかし父はそう云う今川の意図を正しく汲んでいて、その上で怒ったのであった。今川にはさっぱり解らなかった。そして今川は、その時多分生まれて初めて父に噛み付いた。若気の至りである。
父は厳格に答えた。
ー 明治以降、蒔絵の新しい様式が樹立できぬのは何故か、お前に解るか。
ー 技巧を凝らし、細工に現(うつつ)を抜かすからだ。
ー 工芸のどこがいけない。
ー 蒔絵師は芸術家などではない。芸術と呼ばれるのはあくまで作品の方だ。作家ではないのだ。
ー ただ描く、ただ創ることができぬのなら、
ー 止せ。
理解できなかったが、骨身に染みた。
そして、今川はそれ以降、ひと通りの技法を学んでから後は、蒔絵のみならず一切の絵筆を折ってしまった。生涯父にも、兄にも敵(かな)わぬと思ったからだ。それは、それは大きな劣等感が残った。
父の言葉は、幾ら反芻(はんすう)しても通り一ぺんの意味しか解らなかった。しかし自分の及ばぬ場所があることだけは善く解った。兄はその後も地道に修練を重ね、父には及ばぬまでも、かなり優れた作品を物す程になった。やはりちっとも新しくはないが実に立派なものだと思う。兄は多分技巧的には今川に遅れを取っていたものの、今川には解らぬ何かを最初から会得していたのだ。その何かが何なのかすら解らぬ今川には、やはり跡目など継げぬのである。
次男で良かったと、今は思っている。そして父も兄も尊敬している。家族の仲もいい。しかしそれらは凡て何かの裏返しである。尊敬の裏には劣等感が貼りついている。無責任な立場の齎(もたら)す開放感の裏には喪失感がつき纏(まと)う。だから今川は、老人の云ったように家や伝統に楯突(たてつ)いた訳ではない。寧(むし)ろ敗北したと云う表現の方が近いのだが、それも決定的敗北ではない。諦めたと云うか、屈折したのである。そうした屈性をもう一度折り曲げて、今川は何とか真っ当に生きている。
今川の半端は、本当はそう云う半端なのである。
複雑な心境とはそうした心境なのだ。
『鉄鼠の檻』24 - 25P. より
今川の「抱えたもの」とは「こう云うもの」です。
最後に
いかがでしたでしょうか?
「伝統は革新の連続である」と云う言葉もありますし、今川の「若気の至り」と云うのも「ケースバイケース」というか、半分は「正しい想い」ではあるのでしょう。
ただ「何事もバランスである」と考えると、やはり彼の当時の「若気の至り」は「行き過ぎていた」のかもしれません。
私も、よく「理解してもらってる(もらえそうな)人」には、ここで出てくる「裏返る」話を使います。
※ 「裏返る」という「法則のようなもの」に就いてはこれらの過去記事も。
kazzhirock.hatenablog.jpkazzhirock.hatenablog.jp
今川は「裏返った気持ち」を「更に反対方向に裏返して」なんとか「元のように戻したフリをして(つもりになって)」生きています。
次回は、その「裏返ったもの」を「ちゃんと元に戻すこと」に関するやり取りを。
「物語」と云うのは、実に面白いものです。
「私の気持ち」など、誰にも理解できませんし、それは当然のことです。
※ だって、どこまで行っても「他人は他人(違う宇宙)」だから。
そういう意味で、どの記事かに書いたとは思いますが、私は「相手の内宇宙を理解するのに全力で」取り組みます。
その為には「語って(物語化して)」もらわないことには」始まらないこともあります。
※ なかなか難しいんですけどね、これも。
ある程度「推測すること」もできるのですが、何せ「神は細部に宿る」もので。
要するに、内宇宙を物語にすることで、深く、その人の境遇を想像することによって、仮想的に追体験できるというか、共振するというか、共鳴するというか。
※ 「物語の創造=新しい宇宙の創生」なのかもしれません。
「空想の人物でさえ、あたかも実在しているようになる」のは、作家の腕前次第なのでしょう。
※ 多重人格的な人は作家向きでしょうか?
次回で「今川がどのような屈折を抱え、それがどのように解消されたのか?」と云うプロセスを追体験いただきたいので、ここまでで「今川に深く共鳴しておいていただきたい」と、そう思います。
そして、その「解消されたプロセスの追体験」さえできれば、あとは「応用するだけ」なので、他の「モヤモヤと心に巣食うもの」も「自分で解消できるようになる」かもしれません。
究極的なことを云えば「言葉を交わさずとも伝わる(交歓できる)」のが理想ですが、そこまでには「多くの言葉を交わす」か「たくさん近くにいる」か、どっちもやらないといけないんでしょうが。
※ それこそ「以心伝心」ですね。
また。
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おまけ
私は「蒔絵」から「クリムト」を連想します。
ja.wikipedia.orgja.wikipedia.org
『接吻』大好き!
※ 実際の接吻も含め(笑)
『接吻』といえば、こちらも。
www.youtube.comwww.youtube.com
「金」繋がりで。
コチラの英国BBC制作の「金継ぎ」に関するドキュメンタリー、コメント欄が外国人のみなさんからの絶賛コメントで溢れていました(笑)
「他人の壊れたものを修復することで、自分の壊れたものも一緒に修復する」
※ これが「日本の精神性」なのでしょうね。
「コロナ騒ぎ」が落ち着いたら、また、京都にのんびり旅したいものです。