ようこそ、みなさん。
「いきなりどうした?」と思われかねないタイトルをつけてみました。
ここ数日の間(詳しくは書けないのですが)「とてもステキな出来事の連続」でした。
「人生で初めての経験」というものもいくつか経験させてもらうことができましたし、それらの中には「想像すらしたことないもの」も含まれていました。
正確に言うのならば「こんなことが俺の人生で起きたらいいなぁ」とは思ったことがあるけれど、同時に「そんなことは起こりっこないよなぁ」とも思っていたことなわけですが。
不思議といえば「とても不思議なこと」と言えることもいくつか起こりました。
偶然かといえば「必然と呼んでもいいかもしれないようなこと」もありました。
大袈裟かもしれませんが「これまでの私の人生を基準に考えると」まさに「奇跡的」なことばかりの日々でした。
思い返せば「これには何か意味があるのでは?」と感じてしまっても仕方ないような「ドラマチックな出来事」というのは、私の人生の中でも何度かは起こったことがありますし、それらが「最終的に上手く行ったか?」と自問自答すれば「決してうまくは行っていない」と答えざるを得ません。
「何をもって完成とするか?」であったり、「どの時点の状態をもってして成功とするか?」であったりは様々な解釈ができるとは思うのですが、少なくとも「過去に起こった奇跡たち」は消え去ってしまっていますし、私は私で「また起こってほしい」とは思っていないものに意味を変えてしまっています。
※ 「今回の奇跡のようなこと」は起こり続けてほしいですし「そのようなことの先にある未来」に住んでいたいとは思います。
そのようなわけで、今回起こった「奇跡的なことの連続」に関しても、あまりドラマチックに解釈しすぎることなく「極めて冷静に」捉えようとはしているのですが、考えれば考えるほど「ある意味」があるように思えて仕方がないのです。
そもそも、そのように「特別な意味付け」をしてしまうのも、先日から少しお話させていただいている「時間は未来から過去に流れているとするのが正解なのでは?」という「私の視点の変化」があるからこそなのですが。
※ そもそも、この「視点の変化」自体がとんでもないことだと思います。
「奇跡的な出来事が連続した日々に起こったことの一例」をお話させていただく前に、もう少し正確に「時間が未来から過去に流れている」ということのお話をさせていただきたいと思います。
私は正確には「『今、この瞬間』に『古い今』の消滅と『新しい今』の発生が同時に重なり合いながら起こっている」と感じるようになってきました。
「プランク時間」というものが存在しています。
プランク時間は、真空中において光がプランク長に等しい距離を通過するのに必要な時間である。 ビッグバンが起きてから1 tP 以内のことをプランク時代という。 従って、プランク長は、この時代の終末の宇宙の大きさといえる。
「『時間』を短く区切って行った時に『もうこれ以上無理っ!』ってとこまで区切った長さ」だと思ってください。
そんなわけで、より正確に言い表そうとすれば
「『過去/今』と『今、この瞬間』と『今/未来』という3tPのユニット状態」を「今」とするようになりました。
※ 意味わかんないですよね?笑
「『過去(観測によって確定)』と『過去/今・今・今/未来』と『未来(未観測故に無限)』で3tPのユニット」なのかもしれません。
※ ますます意味不明ですね?笑
まぁ、これは「完全な仮説」でありますし、ここら辺りは「なんとなくそうかも?」程度に受け止めてもらえればありがたいです。
※ また詳しく書きます。
とにかく、このような「今」の解釈で考えてみると、これを「現在の私たちが捉えやすくなるであろう考えられる表現」は「時間は未来から過去に流れている」となります。
さて、こんな風に考えるようになった人間が書いてるだけのことですし、何も「実証」されているわけのことではありません。
「ソースは?」と聞かれても「醤油じゃないやつ?」と答えるしか(そういう意味じゃない)
「実証されてないからありませんけど?」としか答えることができませんので、単なる私の妄想である可能性も非常に高いかもしれません。
なので、個人的な「実験をすること」にしました。
「奇跡的な出来事」の中には、私が「普段だったら絶対に選ばないものをプレゼントしてもらう」という出来事が含まれていました。
※ そもそも「誰かにプレゼントをもらう」ということ自体が超レアです笑
私は「好みにうるさいタイプ」なのですが、その「頂戴した、普段の私なら選ばないであろうもの」が「意外と嫌いではなかった」と言うか「むしろ、そういう物を持ってみるのも悪くないなと思えた」と言うか「正直、持ってみたかった」というようなモノでした。
そのような「『今までの私』の連続で出来上がるであったであろう未来の外から来たもの」というのを「まるで新しい可能性未来から来たモノ」として認識してみることにしました。
「過去からの因縁の連続の結果として目の前に現れたモノ」としてではなく、それは「あくまで『未来からの贈り物』である」としたのです。
そして、それらの「頂戴した時の感動」であるとか「頂戴した時の満足感」というのを「無限にある未来の中から『そういうもので満たされた私』というものが存在し、それを感じている私」とリンクさせてみようと思うのです。
ありがたいことに、その「頂戴したモノ」というのは「日常的に使うモノ」でありましたので「日々目にすること」になります。
おそらくですが、大事なのは「無意識状態であっても、日々『選びたい未来の感触』と繋がり続けていること」になってくるはずです。
『引き寄せの法則』と呼ばれる方法論では「過去のある時点で決めたことが未来からやって来る」とされますが、そのようなモノ(引き寄せの法則)と、私がこれから検証してみようとしていることは「まるで違う」と言えるかと思います。
※ 「過去」が「未来の原因」という発想ではないので。
「未来の私になりきる」ことを「無意識的に、しかも瞬間の連続において」行わなければなりません。
※ なので「日常的に使用するモノをトリガーとすること」というのは「非常に効果的」なのだと思います。
それが出来れば、それは「『未来の私』が時間を逆行しているようなこと」と言えるのかもしれません。
未来の私が思い出している記憶を、現在の私が経験してるので「時間が過去からの未来に流れているように感じている」というのが、私たちの時間感覚の真相だったとしたら?
試してみる価値は大いにあると思いますし、かなりの確率で「たぶんそうだろうな」と今は思っています。
書き足りないと言うか、これ以上詳しく書けるほどまとまっていないと言うか、書ける技量がないと言うか。
そうは思いつつも「まだ不安になること」もあれば「確信を持ちきれていない」ので、今夜はこれぐらいで。
ただ、今の私の考えていることで解釈すれば「これまでの人生は、今のこの考え方に到るためにあった」とも言えますし、もちろん「すべての失敗や挫折も最終的な幸せや成功のために存在している」とも言えるかとは思っています。
また。