ようこそ、みなさん。
朝方更新したメモと「なぜそんなこと考え出したのか?」の経緯について、なんとなくまとまったので書き残したいと思います。
星に願いを
私は最近、外にいることが多くなり、昨晩も夜中に外で星空を見上げておりました。
市街地(地方都市ですが)からは程よく遠く、かと言っても「山奥」というほどでもない山の近く。
高速道路を行き交う車のヘッドライトや、近くの民家の灯など、わずかばかりの光があるような場所とは言え、市街地からよりは遥かに綺麗な星空を観ることができます。
天の川も、うっすらと見えるような?見えないような?といった程度の美しさです。
「UFOでも出てこないかなぁ?」などと呑気なことを考えながらタバコを燻らせていたのですが、私の視界を一本の光の筋が流れたのです。
「あ!流れ星じゃん!」と。
もちろん、そんな台詞を声に出したわけでもありませんし、そのような「認識」が私に起こった何秒か後には、もう星は燃え尽きてしまっていました。
よく「流れ星を見つけてから、流れ尽きるまでに『願い事を三回言えたら、その願い事は叶う』」などと言われますよね?
「そんなの無理じゃん!」と私は小さい頃から思っていたのですが、長ずるにつれ「ああ、そんな僅かな時間でも『常に心に願い事をしている状態』ならば、唱えることもできるかぁ」と考えるようになっていました。
そのように「常に祈願すること」ができるほどの状態になっていれば、きっと「その願いに向けて生きている」ことになるので、当然のように「その夢は叶う」のだと。
しかし、私は同時にこうも思うようになっていました。
「願えば願うほど、『思考を支える思考』は『願いの不在』を認識するだけ」だと。
「私は幸せになりたい!」と願えば願うほど、そのように願う原因として「私は幸せじゃない!(だから幸せになりたい!)」という「願った状態に自分はない」という現実が、無意識の中で強化されるようになる。
※ 「思考を支える思考」のお話はコチラから。
「無意識」というのは手強いものです。
なにせ「普段は『意識のステージに上がってこない』ので『無』意識」なのですから。
余程念入りの自分の心の奥底まで覗き込まないことには、その姿すら捉えることはできないでしょう。
昨晩、流れ星を見送った瞬間。
私の心の中に願うでもなく、ただ「感じたもの」が残っていました。
「あ、俺、どんなカタチかはわからんけど、確実に『幸せになる』に決まってる」
「というか『これまで』も『ずっと幸せ』だったし、もちろん『これから』も『ずっと幸せ』だし、それは『今、ここ』で『幸せ』だからだわ」
という「感触」だけが在りました。
※ そして「幸せに巻き込みたい」とも思います。
※ 「幸せ」のイメージ(笑)
もちろん「星が流れ去ってから」しばらく時間を空け、その瞬間に自分が感じていたであろうことを後から言語化すれば、ですが。
もはや「意識して幸せを願う」わけでもなく、その瞬間は思考していたわけでもないので「思考を支える思考」も存在することもなく。
流れ星が流れる「僅かな時間」すらも「無意識がこのように感じることができていれば、とても長い時間になる」ということがわかりました。
だって「毎瞬、幸せに満ちている」わけですから。
思考は、その感触を「後付けで解釈するだけ」とも言えます。
実際のところ、私が今「こういう風に感じられていなかったら」としたら?
あまりに色んなこと(「過去から未来へ時間が流れている世界観」だと「過去にやったこと」と「その結果の出なさ」)のせいで、きっと「潰れていた」ことでしょう。
※ 「対処すべきこと」には「対処するしかない」はずなのに。
そのようなわけで、常に「幸せである」ことができるようになると「自然と頑張れる」というか「結果的に頑張っていた」ということになるのだろうと。
「星空を見上げる」という行為は、私たちを「時間と空間という縛りから解き放ってくれる」のかもしれませんね。
「閉じられている」ように普段感じている世界が、実は「開いている」のを教えてくれるような。
※ あまり書きすぎると「変なスピリチュアル」になるのでこれぐらいで。
時間は未来から過去へ
「なぁ〜んでこんな風に思えたのかなぁ?」と、しばらく考えていたのですが、こうなったのは、どうやら先日から繰り返しお話させていただいている「時間は未来から過去に流れているのが正解ではないだろうか?」という考えに到ったからだと結論が出ました。
流れ星が「流れている瞬間」も「その前後」も、私は「ただ、幸せ」だったのです。
「再確認しただけ」とも言えるでしょう、流れ星をキッカケにして。
「なぜ未来も『幸せ』と感じることができているのか?」に関しては「あるキッカケ」というものが非常に大きいのですが、それも「どうなるかわからない」と言えばそうなのですが、例え「それ(あるキッカケがもたらす未来)がどうなろうとも構わない」というか「うまくいくに決まっている(どんな形であれ)」というような「未来の感触」が「現在の私の中」に存在しているからです。
「『未来で幸せを感じている私』が、その記憶だけを失って存在しているのが『現在の私』と言える」ということになるのでしょうか?
或いは「『未来の私が感じている感覚』と『現在の私が感じている感覚』が繋がっていて、未来で先行して感じたものを現在感じている」とでも言えばいいのでしょうか?
なかなか言語化するのが難しいものです。
「論理的に組み上げられた説明」ならばできると思うのですが、まだ私はそれをしたくはありません。
「理解していること」と「それを実際にできること」というのは別物です。
解った「つもり」になるのは大事なことですが、そのまま「腑に落ちること」がなければ、それはやはり「つもりになっただけ」でしょう。
ここのあたりの感覚は「運命は完璧に決まっているが、それが故に完全に自由である」というお話になってきます。
「無限にある未来」の中から「自分が幸せを感じている未来」を「選択」し、その「未来の自分の感覚と繋がる」ということこそが大事なのかもしれません。
もう少し、この状態を「味わいきる」ことに専念すれば「多くの人にお伝えすることができるほど言語化できる」とも思っていますので、その暁には(途中でも書くでしょうけど)詳しく書かせていただきたいと思います。
だいたい、私は「思考回路の根本が変わってしまった」とも言えますので、書く文章の全てに「この考え方が反映している」わけです。
ただでさえ「なかなか理解していただけない」文章を書く人間ですので、これからがますます心配でもありますが、それでも「俺は大丈夫だ!」とも感じています。
だって「私みたいな感覚の人が増える」ことこそ、私の目標でもありますし、そんな人が増えれば「理解してもらえる」わけですし、私は「そうなる」と意味不明の自信を感じているわけですから。
私も大丈夫ですし、あなたも大丈夫ですし、みんなも大丈夫です。
追記.
「見捨てられ不安」らしきものを抱えている人間としては「よくぞここまで来たもんだ」とも思いますし、同時に「また戻っちゃったらどうしよう」とも思うと不安にもなりますが、それでも「なんとなく感じているもの」を大事にしたいと思うのです。
※ それこそ「瞬間的にぶり返すこと」は、まだまだありますし、そのせいで「とても寂しい気持ち」にもなりますが、ほんのしばらくの間だけは。
最近の私には「次元を超えてやって来た」としか考えられないものが、あまりにも多くありすぎるので。
「次元を超えるもの」について考えていた時、やはり『インターステラー』で語られていたように「愛だけが次元を超えて影響を与えることができるもの」というのは「ありゃ本当だろうな」とも感じるようになってきました。
私は「未来からの愛」にも包まれているような気もします。
「愛してくれている存在が在る(過去・現在・未来の全てに置いて)」とも感じますし、そうなってくると「釈迦が『愛は捨てるもの』と説いたと、多くの人が『誤解している』のもどうにかならないか」などと、実に烏滸がましい話ですが、そう思い始めています。
結局、捨てようが拾おうが「愛はそこかしこに在る」わけでしょうから。
捨てるべきは「執着のみ」でしょう。
私は「大いに愛したい」と思います。
そして「大いに愛されたい」とも思います。
愛しています。
また。
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