ようこそ、みなさん。
私ごとですが、最近生活スタイル?が大きく変わりまして。
外で過ごす時間というものが、とても増えています。
秋の風が吹き始めたとは言えども、まだまだ日中は日差しも強く、色白で有名な私も(笑)どんどんと日焼けをし、すっかり健康的?な見た目になろうとしています。
路傍の石のように、と言えば良く言いすぎですが、あまり物事を考えすぎないようにして外にいますと、実に様々なものに目がいきます。
道路の上をモンシロチョウが舞っていました。
車が通るたびに「接触しないかな?心配だなぁ?」と思って見ているのですが、ヒラヒラとその身をかわし避けてしまいます。
当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、よくよく考えてみると不思議にも思えます。
人間のように脳が発達しているわけでもないのに、どうやって車が接近していることを感じ取っているのだろう?
なぜギリギリまで車が通るコースから逃げないのだろう?
そもそも、蝶々に「生きたい」という気持ちなどがあるから避けているのだろうか?
それとも、単に車の風圧で押し出されるようにして接触を回避しているだけなのだろか?
などなど。
たしかに、蝶には「人間基準で考える自我」のようなものはないのでしょう。
本当に、ただ「そこに在る」だけ。
ヒラヒラと宙に舞っているだけ。
林の中には、大きな蜘蛛が大きな罠を仕掛けています。
先ほどの蝶々が捕まらないか心配になりつつも、同時にこうも思います。
「蜘蛛がほかの生き物を捕らえて食べることは悪なのだろうか?」と。
蜘蛛も生きています。
何かを食べないと生きることはできません。
蝶の味方をすれば、蜘蛛は悪になり。
蜘蛛の味方をすれば、蜘蛛も「ただ生きているだけ」ということに気付きます。
蚊にはたくさん血を吸われます。
払っても払ってもやって来るので、そのうち払うことをやめてしまいました。
おかげで痒いです。
空には、まるで鳥が羽を広げたような雲が浮かんでいました。
あの雲もまた、大きな意味では「生きている」のかもしれません。
久しぶりに見たてんとう虫も、やっぱり「ただ生きて」いました。
たくさんの人々が、車に乗ってわたしの前を通り過ぎていきます。
人間も、本当は「ただ生きている」だけのはずです。
寝ている時に「意識」はなくとも、やはり私たちの身体は「ただ生きて」います。
いびきをかいてるかもしれません。
歯ぎしりをしているかもしれません。
心臓は「動け!」と思わずとも、勝手に動き続けてくれています。
身体は、身体として「生きて」います。
朝、肌寒さを感じていた私の身体を暖めてくれた太陽は、お昼を過ぎる頃にはジリジリと私の肌を焦がし始めます。
西陽を浴びながら、今度は太陽のことを恨めしく思い始めていると、吹き抜ける涼しい風をありがたく感じ始めます。
「あの太陽の力をもっともっと上手に活かせたらなぁ」と感じずにはいられないほど、太陽というのは圧倒的な存在であること(この地球にとって)を実感します。
1日外にいるだけで、色々と湧き上がってくるものがあります。
話は変わりますが。
私には、最近とても楽しみにしていることがあります。
もちろん、脳味噌でも楽しみにしていますし、それ以上に感情でも楽しみにしていますし、たぶんですが「身体もワクワクしている」感じがしています。
とても久しぶりの感覚です。
「ああ、生きてるってこういうことだなぁ」と、しみじみとしているところです。
生きている間に、何回感じることができるか、そんなことはわかりませんが、こういう「喜び」を「身体いっぱいで感じること」というのが、とても大事で、大袈裟に言えば「それこそが生きる意味」なのかもしれません。
「心の拠り所」があるのは、とても良いことです。
私は、決して「心は脳味噌だけが作り出している幻」だとは思いません。
心とは「この身体から湧き上がるようなもの」だと思いますし、それが「在りてある」ことに繋がるのだと思います。
人間、誰しもが「還る場所」を求めているのではないでしょうか?
そんなことを想いながら、わたしは鈴虫たちの声を聞きながら家路につくのでした。
また。
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