ようこそ、みなさん。
今日は「邪視」と「裏返り」について。
はじめに
前回は「『ナザール・ボンジュウ』と『ハムサ』と呼ばれるお守りは『邪視』から人を守ってくれるものである」というお話でした。kazzhirock.hatenablog.jp
ナザール・ボンジュウ
photo by Brian Jeffery Beggerly | Flickr
ハムサ
photo by just_a_cheeseburger | Flickr
「邪眼」というのは「邪視という効果を他人に与える本体」であり、一方「邪視」というのは「行為そのもの(またはその効用)」になると思いますので、正確には「ニュアンスが違う言葉」になるのでしょうが。
「邪視」を発揮するとされるモノ
「邪視」を発揮するのは「どんな目とされたのか?」ですが
いくつかの文化では、邪視は人々が何気なく目を向けた物に不運を与えるジンクスとされる。 他方ではそれは、妬みの眼差しが不運をもたらすと信じられた。南ヨーロッパそして中東では、青い瞳を持つ人間には邪視によって故意に、あるいは故意ではなく呪いを人々にかける力があるとして恐れた。
「青い瞳」を持ってる人、たまったもんじゃありませんよね。
これが「ナザール・ボンジュウ」が青い理由です。
「青い瞳」というのは魅力的なもので、思わず「引き込まれて」しまいます。
そう「青い瞳の人」に「そのつもり」がなくても。
これが「故意ではなく呪いを人々にかける力がある」と考えられた理由であり、要するに「引き込まれた側の勝手な言い分」なわけです。
「誘惑してきたアイツが悪い!」的な。
※ 本当に身勝手な言い草です。
物事は「裏返る」のです。
「青い瞳は魅力的だから、その瞳の魔力に負けないよう、こっちも青いものを持って対抗しよう」というのが、隠された心理でしょうね。
「力」というのは「受取手の解釈次第」で、正にも負にも働くのです。
まぁ、それもこれも、この世界は「人間の心でできている」とも言えるわけで
心理学での研究によって、人間というのは幼児段階ではほとんどの人は、基本的には「わたし(自分)が(大)好き」と(しばしば言語も用いず、非言語的な、根底的な感情として)感じている、ということが理解されている。幼児段階ではそれが一般的で、それで良いのだが、大人になるにしたがって人は成長し、自分に対してもアンビバレントな態度がとれるようになることが一般的である。つまり、自分に対する感情も多様化し、しだいに変化するので、人が自分に対して何かをした時の感情も変化するわけである。 (それができないまま年齢的にだけ「大人」になってしまった人が、つまり大人になっても「わたし(だけ)が好き」「わたし(だけ)がかわいい」という感情ばかりに駆り立てられて過ごしている人が、社会で様々な問題を引き起こす傾向がある。)
例えば、人によっては子供の時には、親や教師などから自分の不十分な点を指摘されたりすると、指摘した人を「大嫌い!」と感じて、憎む人はいる。だが、その同じ人が、大人になり、大人扱いされるようになり、大抵のことで「大人だから本人の責任だ」と見なされ、周囲のほとんどの人が親切に先まわりして自分の不十分な点を指摘してくれなくなり、取り返しのつかない大失敗をするまで放置される、ということを何度か経験したりすると、今度は誰かから自分の不十分な点を指摘されても、「厳しいけれど、注意してくれる人がいるだけでもありがたい」とか「客観的に見れば、自分にも到らない点は多々ある。今回は、あの人がこれを指摘してたおかげでこれにも気付くことができた。私の至らないところは素直に改善しよう。」などと感じるようになる人もいる、といった具合で、同じ人が同じことをされても、年月とともに受け取り方が変化しすることはあり、「憎悪」を感じていた人が、逆に ある種の「感謝」すら感じるようになる場合もあるわけである。
なお、幼児的な自己愛の段階を卒業して、全ての人々への愛(人類愛、友愛、兄弟愛)を自分の心の中心に据えて生きゆく道を選ぶ人も多いわけであるが、たとえば「人々が相互の人権を心から大切にして、誰もが互いを尊重している状態、そういう社会」が好き、と感じている人は、(たまたま自分個人がどう扱われたか、ということではなくて)誰に対してであれ人権を侵害する行為を行う人のことを憎むことは多いわけである。
こういう「心の仕組み」が働いた結果ではないでしょうか?
※ 「”憧れ”は”理解”から”最も遠い感情”だ」再び。
私の目標は「本当の世界平和」ですが、まずは「自分を愛する」ことができないと「他人を愛する」こともできないわけで、そりゃ「世界平和なんて遠い」のは当たり前かもしれません。
そのために「幼少期から愛情をたっぷり注ぐ(受ける)」ことや、それが出来なかった人には「自分で自分を愛せるようになる」ことこそが、1番最初に必要なことかもしれません。
「邪視」の能力を持つとされるものたち
南ヨーロッパや中東では「青い瞳」が「邪視の能力を持つ」と考えられていましたが、ほかの文化圏では「青い瞳でないもの」も「邪視の能力を持つ」と考えられてきたようです。
例えば
バロール
バロルまたはバロール (Balor) は、アイルランド神話に登場するフォウォレ族の勇将。ケスリンの夫でエスリンの父にして、ルーの祖父。
「魔眼のバロル」の異名を持ち、目を開くと多勢をも倒す不思議な破壊力を発揮する。民話では一つ目、二つ目(後頭部にひとつ)、三つ目とも語られる。
ダナ神族を相手とするマグ・トゥレドの戦いでは、敵軍にいる孫のルーに目を石で撃ち抜かれて死んだ。
伝わる民話に拠れば、バロルという戦士が孫に倒される運命と知り、娘エフネを塔に幽閉するが、結局マク・キニーリー(正しくは キャン・マック・カンチャ)とのあいだに生まれた遺児(ルーと目される)の一撃によって落命する。
※ 漫画『七つの大罪』に「バロールの魔眼」てアイテムが登場してましたね。
サリエル
サリエル(Sariel、שריאל)は、「神の命令」という名の大天使(アークエンジェル)であり、死を司る。スリエル(Suriel)、サラカエル(Sarakiel)、ザラキエル(Zerachiel)とも呼ばれる[1]。エノク書によると七大天使の一人である[2]。
※ 「エノク書」もまぁ、厄介な代物なのでそのうち。
バジリスク
バジリスクまたはバシリスク(英: basilisk, 羅: basiliscus, 古希: βασιλίσκος [basiliskos])は、ヨーロッパの想像上の生物である。名称はギリシア語で「小さな王[1]」を意味する[2][3]βασιλεύς (basileus) に由来する。全ての蛇の上に君臨するヘビの王である[2][4]。
コカトリス
photo by CP Hoffman | Flickr
コカトリス(英: Cockatrice, 仏: Cocatrix)は、雄鶏とヘビとを合わせたような姿[1]の、伝説上の生き物である。フランス語では「コカドリーユ」と呼ばれ[2]、トカゲの姿をしているとされる[3]。
カトブレパス
カトブレパス(英語:catoblepas, ラテン語:catōblepas, ギリシア語:κατῶβλεψ[1])は、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)の『博物誌』に記された、西エチオピアに住むとされた架空の動物。ギリシア語の κάτω は英語で downwards を, βλέπ-ειν は to look を意味し[1]、カトブレパスはギリシア語で「うつむく者」を意味する[2]。
大プリニウスの『博物誌』(8-32)によれば、西エチオピアに存在するという、当時ナイル川の源流であると信じられていたニグリスという泉の傍に住む動物である。非常に重い頭部を持ち、そのためいつも頭を地面に垂らしている。「カトブレパスの眼を見た人間は即死する」と締めくくられており、次節(8-33)において同様の邪視能力を持つ生物としてバジリスクを紹介している。外見については、重い頭部の他には「大きさはそこそこで、手足の動きは緩慢」とだけ書かれている。[3]
そして...
メドゥーサ
メドゥーサ(古希: Μέδουσα, Medoūsa)は、ギリシア神話に登場する怪物。ゴルゴーン3姉妹の1人である。名前は「女王」を意味する[1]。姉はステンノー(「強い女」の意[1])、エウリュアレー(「広く彷徨う女」あるいは「遠くに飛ぶ女」の意[1])と呼ばれ、メドゥーサは三女に当たる。
などが存在しています。
※ ここでも「蛇」ってのがたくさん出てきますね。人類にとって「蛇」とは?
私たちは「メドゥーサ」のことを「ギリシア神話に登場する神(キャラクター?)」の一人だと思いがちです。
「オリジナルがギリシャなのか?」などについては「メドゥーサ信仰」のお話として、また別にさせていただこうと思います。
※ 今回、気になって調べてみて、非常に興味深かったです。
その他の「対邪視」
さて、「ナザール・ボンジュウ」や「ハムサ」というのは「邪視を発揮するもの(青い瞳)と同じようなもの」を身につけることで、その「魔力を跳ね返そう」としました。
発想的には「目には目を。歯には歯を」というわけですね。
※ まさに「目」ですし。
じゃあ「目を模したもの以外」は「対邪視用のお守り」にならないのか?
ファリス
ヨーロッパ人の間では、地中海沿岸が最も邪視の信仰が強い。邪視を防ぐ伝統的な方法として地中海沿岸の船の舳先に大きな目が描かれているのをしばしば目にする。また邪視の信仰は北ヨーロッパ、特にケルトの圏内へ広まった。古代ローマでは、ファリックチャーム(陽根の魔除け)が対邪視に有効とされた(cf.金精様:アイヌにも似た迷信があった)。同様に日本でも縄文時代に儀式に用いられたと考えられている男性器を模した石棒が出土している。 同じく邪視から身を守る動作としてコルナまたはマノ・コルヌータ(人差し指と小指を伸ばして後の指は握り込む動作)、マノ・フィコ(親指を人差し指と中指の間に挟んで握り込む動作[2]で古代ローマでは男性器を表す)がある。 また今日侮蔑の意味でつかわれるファックサインは元来古代ローマでは上記のサイン同様に邪視除けのサインであった。[3]
ブラジルでは、 マノ・フィコの彫刻を幸運のチャームとして常に持ち歩く。これらの風習は、邪視文様をほと(女陰)として見たときに対応する男性器のの象徴で対抗する、あるいは眼に対して先端恐怖症を想起させる事や、見るに堪えない見苦しいもので対抗する呪術の方法である。
「邪視文様」を「女性器」と見立てて、それに「男性器」で対抗する。
photo by Leandro Neumann Ciuffo | Flickr
ファルス (phallus) とは、勃起した陰茎、あるいは陰茎のような形をしたオブジェを指す言葉。ただし、オブジェとして広義にとらえる場合、ファルス的シンボル (phallic symbol) とも呼称される。
「男性器や女性器」と「文化」や「芸術」との関係性も、とても面白いものです。
最後に
まぁ、あまり「神話を人間心理に解体する」ってのも「やりすぎると」味気のないものかもしれませんが「どんな理由があって、それを信仰しているのか?」ということを知っておくのは悪いことじゃないとは思います。
人間、進歩しているようで「実はちっとも(精神的には)進歩してない」のでしょうし。
「近頃の若いもんはぁ〜」的なことは、それこそギリシア時代から言われてたと伝えられますし。
また。
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