ようこそ、みなさん。
「ナウシカ」の記事を書き終えて、寝る前に考えていたことについて。
「『コロナ・ウイルスからの手紙』とかって、なんであんな発想になっちゃうんだろうなぁ?」と考えておりました。
結論として「なんだかんだで『原罪』が根底にある文明圏だもんなぁ」というところに落ち着きました。
概要
ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「いわゆる原罪」の概念を採る説もあるが、多数派はそのような見解を否定する[3]。
現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある[1]。しかし、西方教会内でも教派ごとに様々な見解がある。
また正教会では、原罪についての理解が西方教会とは異なるのに止まらず、そもそも原罪という語彙自体が避けられる場合もある[4][5]。正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること(教義化)を避けて今日に至っている[6]。
私は「原罪」について、このように考えております。
「自らが『被害者』となることで『罪の意識』から逃げ出すためのものである」と。
「『罪の意識』から逃げるために『自分で罪を被る(自らを罰する)』って、ちょっとおかしくない?」と思われる方も多いでしょうが。
自分の過ごしてきた時間を振り返った時に
例えば
ある一定期間お付き合いをした方がいたけれど、どうにも良い別れ方ができなかった。
どう考えてもみても「自分が悪い(いたらなかった)」という結論に自分の中では落ち着いた。
「よし!あの人とお付き合いした期間、今度は誰ともお付き合いしないことにしよう!喪に服すわけじゃないけど、自分を見つけ直そう!同じ失敗を繰り返さないために」となったことがあります。
今にすると、実に間抜けな考え方です。
次に出会う人は「別れた彼女とは別の人」です。
別れた相手とはうまくいかなかったかもしれない。
でも、次にお付き合いする人とは「そのままの自分」でうまく行くかもしれない。
「彼女とうまくおつきあいできなかった」という後悔から、自らに罰則を課す。
人間は動物界の中で「圧倒的な力」を得ました。
火を使いこなし、武器を作り、動物としては「かなり卓越した」投擲能力を活かして狩をする。
原始時代には、まだ「命のやり取り」が動物たちとの間にあったかもしれません。
しかし、宗教が誕生する頃の人類は農業というテクノロジーを有していました。
もはや「動物に殺されること」は圧倒的に少ない事例だったでしょう。
現代社会において「動物に殺されること」などがあれば、それは大ニュースです。
私たちは「動物界から切り離された」のです。
そして、その事実(生命に対して圧倒的搾取側に立ったこと)が、人間に残る動物本来の部分で「罪の意識」を感じさせている。
そこから逃げ出すために「原罪」という神聖なる詭弁が生み出された。
命を分けていただかないと生きていけないのに、その事実から逃げ出している。
そんなことを考えながらググっていたら(なんのキーワードでだったかは忘れましたが)、また面白い話題を見つけました。
2020年の東大入試問題の国語の第一問に使われたものです。
一部で話題になっていたようです。
「俺も東大ぐらい合格できたんじゃ!真面目に受験勉強してたらな!してたらなぁ!!!(してない)」と負け惜しみ全開モードで読んでみました。
※ そもそもマトモに高校に行っていない。
余談ですが、将棋の米長先生なんかは「兄貴たちは自分よりバカだから東大に行った」と宣うような方です。
実際、将棋の棋士の皆さんは天才集団です。
受験勉強に必死にならずとも東大ぐらいなら簡単に合格できてしまう人たちこそが本当の天才でしょう。
平成31年度にセンター試験を受験した人数は546198人で、同年度に東大に合格できた人数は3084人(入学者数は3070名)なので、センター試験受験者数を全受験者数とすると、全受験者に占める東大合格者の割合は、0.56%とすることができるそうです。
※ だからそもそも合格しない。
それでは引用させていただきます。
学校教育を媒介に階層構造が再生産される事実が、日本では注目されてこなかった。米国のような人種問題がないし、英国のように明確な階級区分もない。エリートも庶民もほぼ同じ言語と文化を共有し、話をするだけでは相手の学歴も分からない。そんな状況の中、教育機会を均等にすれば、貧富の差が少しずつ解消されて公平な社会になると期待された。しかし、ここに大きな落とし穴があった。
機会均等のパラドクスを示すために、二つの事例に単純化して考えよう。ひとつは戦前のように庶民と金持ちが別々の学校に行くやり方。もうひとつは戦後に施行された一律の学校制度だ。どちらの場合も結果はあまり変わらない。見かけ上は自由競争でも、実は出来レースだからだ。だが、生ずる心理は異なる。貧乏が原因ならば当人のせいではない。批判の矛先が外に向く。対して自由競争の下では、成功しなかったのは自分に能力がないからだ。社会が悪くなければ、変革運動に関心を示さない。
アファーマティブ・アクションは、個人の能力差には適用されない。人種・性別などの集団間の不平等さえ是正されれば、あとは各人の才能と努力次第で社会上昇が可能だと信じられている。だからこそ、弱肉強食のルールが正当化される。不平等が顕著な米国で、社会主義政党が育たなかった一因はそこにある。
子どもを分け隔てることなく、平等に知識を培う理想と同時に、能力別に人間を格付けし、差異化する役割を学校は担う。そこに矛盾が潜む。出身階層という過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性として、能力主義(メリトクラシー)は歓迎された。そのための機会均等だ。だが、それは巧妙に仕組まれた罠だった。「地獄への道は善意で埋め尽くされている」という。平等な社会を実現するための方策が、かえって既存の階層構造を正当化し、永続させる。社会を開くはずのメカニズムが、逆に社会構造を固定し、閉じるためのイデオロギーとして働く。しかし、それは歴史の皮肉や偶然のせいではない。近代の人間像が必然的に導く袋小路だ。
親から子を取り上げて集団教育をしない限り、家庭条件による能力差は避けられない。そのような政策は現実では不可能であるし、仮に強行しても遺伝の影響はどうしようもない。身体能力に恵まれる者も、そうでない者もいるように、勉強のできる子とそうでない子は必ず現れる。算数や英語の好きな生徒がいれば、絵や音楽あるいはスポーツに夢中になる子もいる。それに誰もが同じように努力できるわけではない。
近代は神を棄て、〈個人〉という未曾有の表象を生み出した。自由意志に導かれる主体の誕生だ。所与と行為を峻別し、家庭条件や遺伝形質という〈外部〉から切り離された、才能や人格という〈内部〉を根拠に自己責任を問う。
だが、これは虚構だ。才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。…能力も遡及的に分析してゆけば、いつか原因は各自の内部に定立できなくなる。社会の影響は外来要素であり、心理は内発的だという常識は誤りだ。認知心理学や脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。外因をいくつ掛け合わせても、内因には変身しない。したがって自己責任の根拠は出てこない。
遺伝や家庭環境のせいであろうと、他ならぬ当人の所与である以上、当人が責任を負うべきであり、したがって所与に応じて格差が出ても仕方ない。そう考える人は多い。では身体障害者はどうするのか。障害は誰のせいでもない。それでも、不幸が起きたのが、他でもない当人の身体であるがゆえに自業自得だと言うのか。能力差を自己責任とみなす論理も、それと同じだ。
封建制度やカースト制度などでは、貧富や身分を区別する根拠が、神や自然など、共同体の〈外部〉に投影されるため、不平等があっても社会秩序は安定する。人間の貴賤は生まれで決まり、貧富や身分の差があるのは当然だ。平等は異常であり、社会の歯車が狂った状態に他ならない。
対して、自由な個人が共存する民主主義社会では平等が建前だ。人は誰もが同じ権利を持ち、正当な理由なくして格差は許されない。しかし現実にはヒエラルキーが必ず発生し、貧富の差が現れる。平等が実現不可能な以上、常に理屈を見つけて格差を弁明しなければならない。だが、どんなに考え抜いても人間が判断する以上、貧富の基準が正しい保証はない。下層に生きる者は既存秩序に不満を抱き、変革を求め続ける。〈外部〉に支えられる身分制と異なり、人間が主体性を勝ち取った社会は原理的に不安定なシステムだ。近代の激しい流動性の一因がここにある。
支配は社会および人間の同義語だ。子は親に従い、弟子は師を敬う。部下が上司に頭を垂れ、国民が国家元首に恭順の意を表す。「どこにもない場所」というギリシア語の語源通り、支配のないユートピアは建設できない。ところでドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが『経済と社会』で説いたように、支配関係に対する被支配者の合意がなければ、ヒエラルキーは長続きしない。強制力の結果としてではなく、正しい状態として感知される必要がある。支配が理想的な状態で保たれる時、支配は真の姿を隠し、自然の摂理のごとく作用する。先に挙げたメリトクラシーの詭弁がそうだ。
近代に内在する瑕疵を理解するために、正義が実現した社会を想像しよう。階層分布の正しさが確かな以上、貧困は差別のせいでもなければ、社会制度に欠陥があるからでもない。まさしく自分の資質や能力が他人に比べて劣るからだ。格差が正当ではないと信ずるおかげで、我々は自らの劣等性を認めなくて済む。しかし公正な社会では、この自己防衛が不可能になる。底辺に置かれる者に、もはや逃げ道はない。理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。
身分制が打倒されて近代になり、不平等が緩和されたにもかかわらず、さらなる平等化の必要が叫ばれるのは何故か。人間は常に他者と自分を比較しながら生きる。そして比較は必然的に優劣をつける。民主主義社会では人間に本質的な差異はないとされる。だからこそ人はお互いに比べあい、小さな格差に悩む。そして自らの劣等性を否認するために、社会の不公平を糾弾する。〈外部〉を消し去り、優劣の根拠を個人の内部〉に押し込めようと謀る時、必然的に起こる防衛反応だ。
自由に選択した人生だから自己責任が問われるのではない。逆だ。格差を正当化する必要があるから、人間は自由だと社会が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。近代は人間に自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する論理が変わっただけだ。
(小坂井敏晶「『神の亡霊』6 近代の原罪」による)
小坂井俊晶 / 神の亡霊
「おお!その通り!常日頃から俺が考えてること(の一部)そのまんま!」という感想です。
要するに「ねじ曲がった自己正当化」が存在するわけです。
社会の根底に流れている心理として。
己の境遇などを含め、色々と考えることがあります。
そして「このねじれをどうにかしたい」という気持ちもあります。
私は「持たざる者の側」に立っています。(少なくとも「社会的には」という意味で)
今日も雨は蕭蕭(しょうしょう)と降っています。
※ 草千里ヶ原じゃないですけど、ここ。
Travis / Why Does It Always Rain On Me?
www.youtube.com※ なんででしょね?
また。
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