ようこそ、みなさん。
ちょっと「風の谷のナウシカ」の お話を。
みなさんは「スタジオジブリ作品」はお好きですか?
「風の谷のナウシカ(1984)」を筆頭に、「天空の城ラピュタ(1986)」「火垂るの墓(1988)」「となりのトトロ(1988)」「魔女の宅急便(1989)」「紅の豚(1992)」「もののけ姫(1997)」「千と千尋の神隠し(2001)」「ハウルの動く城(2004)」「崖の上のポニョ(2008)」「風立ちぬ(2013)」などなど..
他にも佳作が目白押し。
そんな「スタジオジブリ作品」を映画館で鑑賞できるチャンスみたいですね、最近。
「なんでラピュタをやらねぇんだよ!」
「てか、全部やれや!」
と思いながらも「こりゃ、行かねば」と思っているところです。
ちなみに、私は「ラピュタの呪文(「バルス!」じゃない方)」も暗記してるぐらいにはラピュタ好き。
※ 「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール(「光よ、甦れ。我を助けよ」的な)」
シータ(リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ)もムスカ(ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ)もフルネームで言えます。
※ 「目がぁぁぁ!目がぁぁぁぁぁぁ!!!」(うっさい)
ラピュタのこと書き出しそうなのでこのあたりで。
「風の谷のナウシカ」
そんなん思いながらネットを見ていると、やはり「ナウシカ」に関連する話題ばかり目につくようになります。
※ 人間は気になるものにしか意識がいかないわけで。
某大物YouTuber(今や教育系の大御所になったお笑い芸人)さんが動画で「宮崎駿の予言!」的な動画を投稿していたり。
「ナウシカ コロナ」で検索してみれば、やはり「アニメの内容と現在の状況をリンクさせて受け止めている人」がそこそこ存在していたり。
予言かどうかはわかりませんが、確かに「風の谷のナウシカ」から学ぶべきことは多いと思いましたので、私なりに書いてみようと思います。
「ナウシカ」の名前の由来
有名な話ですが、「ナウシカ」という名前は元ネタが二つあります。
名前はギリシア叙事詩「オデュッセウス」に登場する王女様から。
もう一人の元ネタとして、宮崎駿が原作一巻の巻末で明かしているのは「堤中納言物語」に登場する「虫愛づる姫君」というお姫様です。
「ナウシカイアー」は「結婚もせず恋人もいない浮世ズレした少女だけど、海岸に打ち上げられた血まみれの男を、みんなが逃げ戸惑うにもかかわらず介抱する王女」であり、「虫愛づる姫」は「花や長などではなく、人々が嫌う虫を愛するお姫様」です。
「ああ、二人でナウシカだな」と。
「ナウシカの世界」の元ネタ
これも有名な話かもしれませんが、あの世界観(腐海に王蟲がいるのとか)の元ネタになっているのは「地球の長い午後」という小説です。
ブライアン・W・オールディーズ / 地球の長い午後
それでも、SFは科学とはまったくのべつものでもある。この魅力は科学では味わいがたく、またその味わいがたいものがないと、SFの名作とはいいがたい。オールディスの『地球の長い午後』はそういう意味でも堪能の一冊だった。宮崎駿がこれをヒントに《風の谷のナウシカ》を構想したことでも、よく知られている。
私は「『デューン』も入ってんじゃない?」と思っていました。
※ 「デューン」のお話も壮大になるので、また。
原作とアニメの違い
これもファンの方(原作読んだ方)ならとっくにご存知でしょうが、あの「アニメ化されたナウシカは、原作の2巻あたりまでのことしか描かれていない」のです。
ちなみに。
私の世代の「サブカルオシャレ野郎」の部屋には必須アイテムがありました。
「ナウシカの原作全巻セット」
「AKIRAの全巻セット」
「松本大洋の作品(特に『ピンポン』)」
「『トレイン・スポッティング』のポスター」
などなど。
郊外の大規模店に入る前の「ヴィレッジ・ヴァンガード」な感じ。
わかりますかね?
特に思い入れはないけど、なんとなく飾ってある感じ。
本当に好きな人からすると「オシャレアイテムにすんなや!」です。
※ 本当に迷惑しました。
自分で書いてもいいのですが、長くなるのでwikiより引用します。
完全にネタバレしますので、読みたくない方はもう読まないでください。(笑)
あらすじ
「風の谷のナウシカの登場人物」も参照高度産業文明を崩壊させた「火の7日間」という最終戦争から1000年、汚染された大地には異形の生態系である巨大な菌類の森「腐海」が拡がり、腐海を守る「蟲」と呼ばれる昆虫に似た巨大生物たちが生息する。拡大する腐海に生育する菌類が放出する「瘴気」は、蟲たち以外には猛毒のガスである。衰退した人類が腐海の瘴気と蟲に怯える、荒廃した世界が描かれている。この世界に存在する、トルメキアと土鬼(ドルク)という敵対する二大列強国と、その辺境地にあるトルメキアの同盟国「風の谷」および、工業都市ペジテ市が主な舞台となっている。風の谷の族長ジルは、腐海の毒に侵されて病床にあり、ジルの娘ナウシカが代理で国を治めている。
ある日、ペジテからの避難民を乗せた輸送船が風の谷に近い腐海のほとりに墜落する。輸送船に搭乗していた瀕死のペジテ王女ラステルは、救助に駆け付けたナウシカにとある石を託し、兄に渡してほしいと懇願して事切れる。その石は、最終戦争で使われた生物兵器巨神兵を蘇らせる鍵となる「秘石」であった。巨神兵を得ようとペジテを滅ぼしたトルメキアの第四皇女クシャナが、秘石の捜索のために風の谷に飛来。検疫を受けないままの強行着陸をとがめたナウシカは、クシャナの部下と一騎討ちを演じるが、ナウシカの師匠でもある旅の剣士ユパの仲裁で停戦し、クシャナ達は谷を去る。やがてトルメキアは、土鬼との戦争のため盟約を盾として辺境諸国に出征を強いる。ナウシカは病床の族長ジルに代わり、城オジと呼ばれる数名の老従者とともにクシャナ支隊へ合流する[4]。
土鬼の地へ向けて腐海を南進するクシャナ支隊の空中艦隊を、ラステルの兄アスベルが操るガンシップが単機で奇襲し、多大な損害を与えるもトルメキア軍機に撃ち落される。乱戦の中で風の谷の輸送グライダーは、戦列を離れて腐海に不時着水する。輸送グライダーを回収するために降下したナウシカは、同じく腐海に墜落して蟲に襲われるアスベルを救出したものの、羽蟲と接触してマスクが外れたまま腐海の下層部に迷い込む。ナウシカはそこで、腐海下層部の大気が清浄であることを発見する。そして、自身が城の地下で地下水だけで栽培している無害な腐海植物との共通点を見出し、腐海が汚染された世界を浄化している真実に気づく[4]。
劣勢の土鬼軍は、腐海の植物を品種改良し、猛毒の瘴気を吐き出す生物兵器として使用した。この人工の森の瘴気は通常のマスクでは浄化できず、蟲を死に至らせるほど強力であり、土鬼はトルメキア軍を撃退することに成功した。しかし、兵器として輸送していた菌類の苗が突如として各所で一斉に突然変異を起こし、生じた強力な粘菌が暴走し始め、事態は収拾不能になる。かねてからこの粘菌の発生を予知していた蟲たちは、暴走した粘菌に向かって大量に集結した。蟲たちが粘菌に自らを吸収させることで粘菌はやがて無毒化され、暴走は収束していく。大量の蟲が移動する現象は物語中で
大海嘯 ()とよばれており、移動する蟲から放たれた腐海の胞子が蟲の死骸を介して広がり、腐海の領域をより拡大してしまう。結果、土鬼の主要な国土はほとんど滅亡するに至った。
大海嘯を前に奔走するナウシカは、土鬼の地を探索するうちに、「森の人」と呼ばれる種族に出会う。彼らとの関わりの中で、巨神兵や腐海の植物群、蟲たちが崩壊した旧世界の技術による人工生命であること、その目的が腐海による汚染の浄化であることを知る。旧世界の人間たちは腐海を作り出して世界を完全に浄化したあと、火の七日間によって絶滅に瀕した動植物や科学文明勃興以前の文化を復活させるとともに、穏やかで賢い新人類をこの世に生み出し、世界を再建することを目的としていたのだ。ナウシカを始めとする現生の人類は、旧文明の時代の人々が汚染された環境に適合するよう旧文明人類に改造を加えて作りだした人工種であり、浄化の完了した清浄な世界では生存できないという事実を知る。土鬼がトルメキアから奪取し復活させた巨神兵と邂逅したナウシカは、アスベルに託された秘石を掲げ覚醒させる。ナウシカは巨神兵の母としてエフタル語で無垢を意味するオーマと名づける。生まれたばかりの赤子のような幼児性と残虐性を持ち合わせていた巨神兵は急速に知能レベルを発達させ、旧文明時代におけるあらゆる利害を調停するために人工的に作られた神、「裁定者」としての役割に目覚める[5]。
土鬼帝国の首都シュワにある「墓所」と呼ばれる施設は、内部に旧文明の技術を保存しており、土鬼の皇帝たちに旧文明の技術を与えることで世界を動かしていた。腐海の生態系と旧世界の関係を知ったナウシカは「墓所」に向かう。「墓所」はそれ自体が意識と人格を持つ人工生命体でもあり、自らを「墓の主」と名乗るそれは、浄化が終わった後の戦争のない理想郷について語り、環境に適応するよう人工的に作られた現生人類を元に戻す技術も墓に眠っていると語る。しかしナウシカは清浄のみを追求し一切の汚濁を認めない旧文明の計画に反発してこれを否定し、「墓の主」をオーマに握り潰させて殺し、オーマの火で「墓所」を破壊する。「墓所」は新人類の卵や旧文明を研究する博士らを内部に収めたまま倒壊した。「苦しみや悲しみ、そして死も人間の一部であることを受け入れ、汚濁と共に生きてゆくこと」。それがナウシカの選択であった。
オーマはナウシカに看取られながら役目を終え、生き延びたナウシカは全ての真実を胸の奥に秘めたまま帰還する。そして、土鬼の地に留まり土鬼の民と共に生き、後に風の谷に帰ったとも、森の人の元へと去ったとも言い伝えられたという[6]。
アニメ版はアニメ版で「あまりに綺麗にまとまっている」のでわかりませんが、原作だとこんなにも長い物語なのです。
それに「宮崎駿が訴えたかったもの」がかなり違ってきます。
岡田斗司夫(ヲタキング)が「漫画版は歴史そのもので、アニメ版は『真田丸』みたいなものだ」と言っていましたが、その通りだと思います。
アニメ版でのナウシカは「人類の救世主」的な終わり方を迎えましたが、原作では「人類(旧も新も)の業と生きていくことを選んだ」わけです。
宮崎駿自身は、このことで随分と葛藤したとも伝えられています。
このあたりをアップデートさせ、しかも2時間程度にまとめあげたのが「もののけ姫」だったわけです。
宮崎駿、恐るべし。
ナウシカ巨乳問題
実は「ナウシカって巨乳すぎなんじゃね?」という疑問は多くの人が抱いていた疑問のようで、結論は「駿がマザコンだからだ!」とする意見もあるようです。(笑)
※ 「推定Hカップ!」とかいってるサイトまであります。
マザコン認定されたり幼女好き認定されたり、巨匠も大変です。
当の本人はインタビューでこう答えています。
(インタビュアー)
――でもナウシカという少女は、実に魅力的ですよね。
(宮崎)
「ナウシカの胸は大きいでしょ。」
(インタビュアー)
――はい(笑)。
(宮崎)
「あれは自分の子どもに乳を飲ませるだけじゃなくてね、好きな男を抱くためじゃなくてね。あそこにいる城オジやお婆さんたちが死んでいくときにね、抱きとめてあげるためのね、そういう胸なんじゃないかと思ってるんです。だから、でかくなくちゃいけないんですよ。」
(インタビュアー)
――ああ……なるほど……(衝撃!)。
(宮崎)
「その、やっぱりね、胸に抱きしめてあげたときにね、なんか、安心して死ねる、そういう胸じゃなきゃいけないと思ってるんですよ。」
アニメ版でも原作版でもそうなのですが、ナウシカは「ただ、人としてそこにいるだけ」なのだと思います。
周りの人間も、特にナウシカを「女性」としては扱っていません。
もちろん姫さまなので特別は特別なのでしょうが、ナウシカが尊敬される理由は「谷で一番風に乗ることがうまい」からです。
登場人物たちも特段に「女の子扱い」はしていないのではないでしょうか?
あの世界では「まず人間として」ということで判断されているようです。
そしてナウシカも「凛として、人間として」ただそこに立っています。
その上で「女性としての母性」が描かれているのです。
なにせ「ナウシカの慈愛」は生きとし生けるものに注がれているわけです。
私は男なので、死ぬときは女性の胸に抱かれながら安心して死にたい気持ちというのはよくわかります。
道路を歩くときは必ず女性を歩道側にしますし、お店のドア開けるのも基本的に私がやります。
でも「荷物持ってもらうのを当たり前」だと思ってそうな女性は好みません。
九州人なのでご飯代とか奢りたがりですが、お会計の時に自分にではなくて店員さんに「ごちそうさまでした」と言わない人には2度と奢ろうとは思いません。
村上龍好きだった影響ですが、私は「すべての男は消耗品である」と思っています。
女性がいなければ子供は産まれてきません。
つまり、男は女がいないと存在もできません。
妻子を守って死ぬべきは、まずは男からです。
村上龍 / すべての男は消耗品である。
ただ、人として「やるべきことを、やれる能力を持つ人が、やる」ことが最初にあります。
実にシンプルです。
「男だから」「女だから」が一番最初にあるのではなく、性差は「人として」の次にくるのです。
そして、それが「当たり前」な社会が望ましいと思うのです。
ナウシカはそんな世界に生きているのです。
「どんな状態になっても世界を肯定したいっていう気持ちが自分の中にあるから、映画を作ろうっていうふうになるんじゃないかと思うんです」
ナウシカと最近の世界情勢と
さて、冒頭に書きましたが。
どうやら「最近の世界の様相がナウシカの世界に近づいている」と感じられている方も多いようです。
スーザン・ネイピアさんが書かれた素晴らしい本があります。
スーザン・ネイピア / ミヤザキ・ワールド
スーザンさんの素晴らしい考察をいくつかご紹介したいと思います。
西洋人であるスーザンさんからすれば、アニメ版のラストはユダヤ・キリスト教に通じる価値観を感じたようです。
※ なにせ「復活」しますからね。
「宮崎の全作品を通じて文字通り最大の『高揚感』をもたらすクライマックスが描かれており、そこではユダヤ・キリスト教の伝承から抜け出してきたような場面が展開される」
(『ミヤザキワールド』 P259)
それに対して漫画版ラストには
「過激なだけでなく、西洋の人間中心主義的な観点からすれば衝撃的でさえあり、宮崎が非西洋的な世界観に移行したことを窺わせる」
(『ミヤザキワールド』 P263)
との感想を抱き、さらには
「キリスト教なものと東アジア的なものとが対立し、最終的には東アジア的なアニミズムが勝利」
(『ミヤザキワールド』 P280)
とも書かれています。
宮崎駿の以下のインタビューについて
「だから人っていうのは愚かなものなんだよっていうね。実は母親とこの問題をめぐって、ずーっと思春期の頃に論争していたんです。『人間っていうのは仕方がないものなんだ』っていうのがオフクロの持論で、僕は『そんなことはない』って言いあってたんですけどね。どうもこのままいくと、オフクロに無条件降伏になるから嫌だなあと思って(笑)」
『風の帰る場所』 P94
これは「宮崎駿が西洋への失望を強める過程で、人間の進歩のなさについて考えた結果、母親が正しかったことを認めたということだ」と。
さて
どちらの世界観の「ナウシカ」に、現在の世界情勢が似ていると、それぞれの人が感じているのでしょうか?
「全てを浄化する世界」なのか?
それとも「業を背負っても、それでも生きていく世界」なのか?
「コロナ・ウイルスからの手紙」
少し前のことですが、SNS上などで「コロナ・ウイルスからの手紙」と題される文章をよく目にしました。
正直なところ、個人的には全く共感できないどころか、嫌悪感まで感じてしまいました。
やはり「キリスト教的な何か」を感じてしまうのです。
コロナを擬人化し、それは「神が遣わした使者である」とするような。
内容自体は凄く良いことを言っているようにも感じられます。
ただ、それは「人間が、地球(神)のつもりになって書いたもの」にしかすぎないわけです。
「地球のために地球を守ろう!」とか言ってる人は、私は苦手です。
「人間が困るから、地球とうまくやってく方法見つけよう」ならわかります。
宮崎駿の本質を理解している人ならば、決してこのような物言いに共感はしないと思うのですがどうでしょうか?
この「手紙」を書いているのは、あくまでも「人間」です。
「地球になったつもり」「神になったつもり」で人類に警告しているのは「人間」です。
確かに、人間の活動は気候変動の一因ではあるでしょう。
それを是正しなくてはいけないのも事実でしょう。
しかし、地球自体は「人間がどうなろうが」関係ないのも事実です。
どうしても「全てを浄化したい」人間の気持ちが滲んでいるように感じます。
「原罪」と言う概念を生み出してしまった文化の、裏返された感情ではないでしょうか?
「本当は自分たちがこの世界に存在するべきではない」という気持ちの、歪んだ発露ではないでしょうか?
実際、こういう「西洋的な考え方」に共感を示される人が多くいたことに驚きました。
宮崎駿が拒否した「上っ面のヒューマニズム」に酔ってるようにしか感じられないのです。
また纏まりのない記事になってしまいました。
大橋トリオの「風の谷のナウシカ」カバー貼ろうと思ったけど、まったく公式関係なさそうなので自重します。(笑)
また。
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