ようこそ、みなさん。
「スコトーマ」という考え方についてお話しさせていただいております。
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前回は「スコトーマの外し方」の途中まででしたので、今日はその続きから書かせていただきたいと思います。
いやぁ、ほんと「他人のスコトーマ」は余程腕のある人間が「面と向かって、ある程度時間を使って」じゃないと外せないのだなと痛感しております。
どうか、みなさんは「良いことづくめ」なので、ご自身でスコトーマを外しまくって見てくださいね。(笑)
外し方
4. 問い続ける。
これは「自灯明と法灯明」のお話で触れたことと重なります。
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常に「問い続ける。」ことが重要です。
元から疑り深い性格の人なら、そんなことは意識しないでもいいかもしれません。
私みたいな。(笑)
「全てを疑う。」のと「何も信じない。」のはちょっとニュアンスが違いますよね?
「徹底的に疑ったけど、どうやら今の私には必要だな。」と信じることができる内容ならば、それは「一旦信じる。」ことにしていいと思います。
でも「信じすぎる。」のはいけないのだと思います。
信じすぎてしまうと、何かおかしな部分が見えてきても(そもそも見えないかもしれないけど)それがスコトーマになり、その先を考えなくなってしまいます。
「自分が信じてること。」しか見えないからです。
また自分語りします。
前回軽く触れましたが、私は地方都市だと結構良い(とされる)学校に通っておりました。
社長の子供、医者の子供、弁護士の子供、教授の子供、お寺さんの子供、などなど。
まぁ「地方のエリートたち」の子弟が多く通う学校でした。
そんなわけで、同級生の親御さんたちはほとんど「一般からすると偉い(とされる)人々」だったわけです。
※ もちろん、私みたいな一般庶民もいますけどね。
これが私には非常によかったのだと思います。
だってですよ?
友達の家に遊びに行ったら、普段は何百人もの部下がいるであろう社長さんも「ただの同級生の親父」なわけです。
パンツ一丁で、テレビで野球観戦しながらビール飲んでたりするわけです。
よく見たら、ちょっぴり鼻毛がコンニチワしてたりします。
医者の息子の友達の家に行ったら、親父さんがソファに寝そべってスポーツ新聞のアダルトコーナーに夢中だったりするわけです。
おまけに、純粋な僕ちんに「おう、読んでみろ!」とか勧めてくるわけです。
それが、一旦会社の前通って親父さん見かけたら、社員にお辞儀されながらゴマすられてるわけです。
病院に診てもらいに行ったら、患者さんたちが「先生!」とか凄く敬ってるわけです。
「ああ、こんなもんか。」ですよね、私にしたら。
「権威」などは、社会の中での役割に付随する一面的なものに張り付いているにすぎません。
人にはいろんな側面がありますし、状況次第で立場も変わります。
「絶対的に偉い人」なんか、いたとしても世界に数名でしょう。
「絶対的に正しいこと」というのも、きっとそうでしょう。
「科学的手法自体」は信じるに十分値するものです。
ただ、それを利用しているのは「人間」なのです。
いくら計算式が正しかろうとも、そこに代入される「値自体」が正しくなければ?
正しい答えなどは返ってくるはずがありません。
様々な「人間の思惑で都合よく」利用されることもあります。
※ 特に「統計学」とかは。
それに「時代によって正しいことは変わる。」ということもあります。
かつて星々は「地球を中心として」回っていました。
※ そういう見方は、今でもできるっちゃできますけども。
そんなもんなんです。
底から見れば丸い形の花瓶も、横から見ると四角の時があります。
問い続けてみませんか?
※ Think Different
5. 瞑想してみる。
最近では「マインドフルネス」という名前で、随分と瞑想が社会的にも推奨されてきているように感じます。
「瞑想」と「座禅」は微妙にと言うか、かなり違うのですが、これについては長くなるのでまた別に取り上げたいと思います。
※ 「禅」は「生き様そのもの」のようなものなので。
「瞑想」についても「心を空にしないといけない。」と勘違いされている方もいらっしゃられるかもしれません。
全く逆だと思います。
思考はフル回転させてていいのです。
あくまで「論理的かつ感情に飲み込まれないように」ですが。
※ 「心」と「脳」が接触する場であるのが「意識(思考)」なので。
お釈迦様がやられていた瞑想法を「 ヴィパッサナー瞑想」といいます。
「観察すること」に重きがおかれています。
ゴエンカ氏は 「ヴィパッサナー瞑想の代表的指導者」として有名な方です。
少し氏の言葉を引用させていただきます。
自分の内側で起こっているすべてのでき事を、バランスのとれた心で見つめる技を学ぶことで、外側の状況にも執着しないようになります。しかしこの無執着は、現実逃避や、世界の問題に対する無関心ではありません。ヴィパッサナー (Vipassana) の実践を続ける者は、他の人々の苦しみに対してより敏感になり、人びとの苦しみを取り除くためにできる限りのことをしようと考えるようになります。その時も苛立った心で行うのではなく、愛情と慈悲、そして平静さに満ちた心で行います。聖なる無関心を学ぶのです。 聖なる無関心とは、心のバランスを保ちながら、他の人たちを助けるために最大の努力と献身をすることです。周りの人たちの安らぎと幸福のために働きながら、自分自身も幸福で安らかであり続けます。
「瞑想」も、高いコース料金を設定しているボッタクリ教室などもあります。
巷に溢れる入門書なども、内容は玉石混合でしょう。
自己流でやっていても、なかなかうまくいかないかもしれません。
良い師匠に巡り会えずとも、自己流で極める人もいるかもしれません。
みなさまに良い出会いがあることを願います。
ところでみなさんは「ジッドゥ・クリシュナムルティ」 という人物をご存知でしょうか?
日本でも、古くから「精神世界」に興味がある方にはお馴染みかもしれません。
でも、基本的に「とても難解」なので、あまり知名度はないかもしれません。
この人の生い立ちはとても興味深いので、また詳しくやります。
※ 「神智学協会」とかが絡んでくるので。
まぁ「次の救世主」として見出され、ある教団によって教育されたが、その教団を捨て「世界教師」として瞑想のことを説いてまわった人物、です。
※ 正直、クリシュナムルティの言ってること理解というか「腑に落ちたら」スコトーマ外れまくりだと思います。
「クリシュナムルティの名言」を読むだけでも、あなたのスコトーマが外れるかもしれません。
まぁ「理解していること」と「できること」はまったく別次元なんですが。
ここからはまた思い出話をさせていただこうと思います。
やっぱり私の学校、ちょっと変わってるのかな?と思います。
中学の修学旅行はオーソドックスに「京都」だったのですが、その日程がおかしかったのです。
遊びたい盛りの、反抗期真っ只中の、そんな中学生を160人ぐらい捕まえて、なんと「比叡山で一泊」と来たもんです。
「はぁ???」ですよね、中学生からしたら。
お土産に「新撰組」とか書かれた木刀とか買っちゃう年頃ですよ?
おまけに、飾り気のない宿坊に泊まらせられて、さらには「座禅」まで体験させられるっていう。
お堂の隙間から寒風が吹き込む中、姿勢を整え、呼吸を整え、目は半眼にし。
うっすらと、ほんの少し先に視線を落とし、焦点は合わせるでもなく、合わせないでもなく。
心の中を落ち着かせ「雑念」が沸き起こらないように。
聞こえるはずのない、お堂の外にある木から葉っぱが落ちる音が聞こえたような。
おまけに晩飯は「薬膳」と来たもんだ。
そんな「体験」をさせていただきました。
ところでみなさんは「不滅の法灯」をご存知でしょうか?
比叡山延暦寺の根本中堂内陣にある不滅の法灯(ふめつのほうとう)は、西暦788年(延暦7年)に最澄が根本中堂の前身である一乗止観院を建立した時に本尊の薬師瑠璃光如来の宝前に灯明をかかげて以来、1200年間一度も消えることなく輝き続けていると伝わっているため、「不滅の法灯」と呼ばれる灯火。最澄の「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび(仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすように)」との願いを込めたと伝わる。消えずの法灯(きえずのほうとう)とも。
というものです。
お堂の中にある、1200年受け継がれているというその灯を見て当時の私は思いました。
「そっかぁ〜。そんな長い間受け継がれてんのかぁ〜。」
「これ、ふざけて消したら...俺が消されちゃうかもな...」
「蝋燭は、どんどん変わってんだなぁ。」
「でも『火』は受け継がれていくのかぁ。」
「ん?待てよ...つまりは...」
まぁ、以前に書いた「永遠に生き続けること」などにも通じますが、結局のところ、受け継がれていくのは「私たちの意思」のようなものです。
蝋燭はどんどん消えていき、交換される。
でも「灯」は受け継がれていく。
私たちの「命」も同じようなものではないでしょうか?
そんなことを懐かしく思い出します。
Nujabes / Reflection Eternal
(Nujabes)Reflection Eternal / クラムボン with Yamazaki Miho & Yamane From Toe
www.youtube.com※ 永遠の反響の中で。
また。
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